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堕天

誰かに呼ばれる声がする、気がする。懐かしい声だ。眩しい青空の中笑うその姿が、いくら手を伸ばしても、遠くなって、ぼやけて、どれだけ追いかけても、届くことはない。忘れることなど無い、何よりも愛していた彼の名を叫ぼうとしても、何故か声が出なかった。

 行かないで。私を置いて、遠くへ行かないで。連れて行って欲しい、今なら、どこまでだってついていけるから。もう、少し歩いただけで倒れたりなんかしない。移動する度に抱えられなくたっていい。もう貴方の手を煩わせないから、冷たい目で、こっちを見ないで。
 貴方のこと、憎いなんて思いたい訳じゃなかった。貴方と横に並んで歩きたかった。私はただ、貴方が、貴方達が笑っていてくれれば、幸せだった、それだけなのに。

「……」

 目に入ったのは、よく見なれた天井だった。薄暗くて、朝になっても陽の光の届かない廃墟の地下室。つい先程まで掌で遮ってなお眩しさを感じたのに、ここはもう手を伸ばしても、かざしても、影になることさえない暗がりだ。
 別に、あの日の関係に戻りたいわけじゃない。大嫌いだ、目の色ひとつで何年も暗闇に監禁してくれた、優しい優しい救世主様なんか。大嫌いなのに。

「……、……嫌な夢」

 そう独り呟いて、身を起こす。妹が死んでから、よく似たような夢を見るようになった。私一人混ざることの出来ない、陽だまりの中の昔の夢。目覚めた後の慣れた暗さも、陽光のあとでは身動きの取れない暗い暗い海底に沈むような気持ちになる。
 朝が好きだ。明るくて、暖かくて、動物の鳴き声や人々の喧騒で賑やかな朝が。好きなのに、好きだったのに、太陽の光は、悪魔であるこの身体には熱すぎる。遊び歩くことなんて出来はしない程の痛みと目眩、死ぬことはなくたって、進んで外に出ようなんて思わないだろう。悪魔が生きられるのは、静かで、暗い、陽の光の届かない場所でだけ。あの二度と触れられない暖かさが懐かしくて、あの眩しさに苦しい程に焦がれてしまう。私が同じ道に引きずり込んだここのみんなは、いつか同じように悩むのだろうか。もう、悩んでいるのだろうか。ごめん、ごめんなさい、……独りは寂しかったんだ。

 明かりをつければ視界に入るのは、あまりに細く、か弱そうな、切り傷だらけの腕だ。悪魔固有の魔力で、本来こんな傷程度は容易く治るはずだろう。しかしその魔力を自ら傷口から遠ざけ、そして今なおさほど治りきっていないその傷は、爪で引っ掻けば鈍い痛みと共に鮮やかな赤色を滲ませた。
 痛みが好きか、と問われれば、なんの迷いもなく嫌いだと返すだろう。傷跡を見るのだって、血液だって嫌いだし、怖くて、苦手だった。それなのに私は、この身に自ら傷を増やしてしまう。あの日からずっと、痛みでしかここに存在している確信が持てなくて、どうしたって不安になるんだ、いっそ死にたいと願う癖に。
 嫌いだ。大嫌いだ、こんな私は。こんなにも美しいこの世界に、生き残るだけの価値は無い。無いのに、死にたい癖に、その癖して生きてみたいと矛盾した願いすらも抱いてしまう。悪にも、正義にもなり切れない、加害者の癖して被害者ぶった半端者。加害者がどんな過去だなんて関係ない、被害者の彼らには関係ない。結局は私の我儘で、そして他者から見た私は、ただの自己中で傲慢な殺人鬼だろう。そうあることを望んだのは、他でもない私自身。だから私が苦しいだなんて、あろう事か許されたいだなんて? 図々しいにも程がある。私は嫌われ者で、最低最悪の犯罪者。その道を選んだのは私。全部私の意思で決めたことで、それでも言い訳を重ねるのなら、そうある以外、生き抜く方法が分からなかった。
 殺さなければ、殺される世界だった。信用したって裏切られて、何度も死を望まれて、そんな世界で出来た唯一の友人は、私のせいで「悪魔に魅入られた」なんて言って殺された。それなのに、悪魔を友人として迎え入れた彼を殺した人間達は、悪魔を嫌う宗教組織に所属していた妹を「悪」と呼んで殺したんだ。悪魔を好いても、嫌っても、行き着く先は同じだった。共存、あるいは否定。例えるのならこれは戦争で、どちらがより安全、なんてものはないのだろう。
 悪魔という存在を、同じく悪魔であり、同じように差別を受けてきた私が忌避するつもりは無い。勿論、悪魔を嫌っている訳でもない。むしろ、人と変わらないと、思っている。それでも、関わって欲しい存在ではない。「悪魔と親しくしたから」命を奪われ、「悪魔を差別したから」命を奪われる。関わるだけでこんなにも脅かされるのに、嫌でも話題に出てくる“悪魔”。その存在は、無視できないほどにこの世界で大きすぎるんだ。人との間にある隔たりは、何千年も染み付いた差別の意識は、そう簡単に消えはしない。それであれば共存は向いていない。

 凍てつくほど冷たくて、爛れるほどに焼け付くこの世界は、酷く理不尽で、狂っていて、悪魔に堕ちた私にはただ、平穏に生きるだけの道がもう今更、どうしたって見付けられない。それでも、何度も私を裏切った、憎みたかったこの場所は、息が詰まるほどに美しかった。心から愛おしかった。こんなにも最低な世界を、憎むべき世界を、酷く愛してしまったんだ。きっとこの身さえ捧げたって、後悔はない程に。

 この根付いてしまった差別が、無くなればいい。差別する要素が、ちゃんと消えればいい。そう、思ったんだ。
私だって、神の子だから。どんな手を使ってでも、絶対に、救ってみせる。もう誰も、悪魔だなんて虐げさせない。誰もが平等な世界を、平和な世界を、その為には犠牲だって仕方ないんだ、だって対価のない平和なんて成り立たない。そんな絵空事、存在するはずがない。私が、この世界を正してみせる。悪役だって構わない、もう許されたいなんて思わないから。きっと、どんな苦しみも、痛みさえも、いつかきっとそれで良かったと思える世界を!
お願い、邪魔しないで、立ちはだからないで。保証しよう、最上級の幸福を。嘘はつかないよ、私は嘘が嫌いなんだ。悪魔にだって、いつか陽だまりの中笑える未来を。差別や争いのない世の中を!!そして私こそが、この世界を救済する唯一の方舟となろう。私はノアなんかとは違う、誰一人見捨てたりはしない。等しく、全ての存在に、手を差し伸べよう。

 私は、ジュダス。今更神さえ裏切ろうが、行き着く先は知れたこと。

 鈍痛が脳を刺す。鮮明になった思考で、今後の計画を練る。まだ誰も起きてこない時間だろう、この痛みは、もう暫く、このままで。爪の間の肉塊と滴る血をティッシュで軽く拭き取って、手を洗うついでに、ホットココアでも飲みながら身支度をしようと自室を出た。

@2025 ヰ嚢

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