top of page

生まれ育った街。綺麗な青空と対比する、立ち入り禁止のテープが張り巡らされた、廃都と化したボロボロの街。
冷たい風が心地良い。まだ、この道を、覚えている。

怜と並んで、ここを歩いてコンビニに行った。あの家の庭ではよく野良猫が集会を開いていて、そのタイミングに居あわせると本当に楽しそうだった。
ここにあったファミレスには、天海さんと何度も来たことがある。家よりも美味しいと思ったのは、きっと彼がいたからだと、随分経ってから気が付いた。
自分の家。崩れ壊れて尚もよく目立つ、きっとこの辺りでは随分と大きな一軒家。もう殆ど当時の見る影もないけれど、今思えば随分と裕福な家庭だったのだろうと思った。私には、食事すらまともに出てこなかったけど、なんて。まあ、学費だの、光熱費だの、ローンだの、生活にかかるお金を気にした事がないから、何も言わずとも出してくれていたものは多いのでしょう。完全に無いものとしていた訳ではないのかもしれない、なんて、今となっては思うけれど、……それでも、返事くらい、して欲しかったなあ。
「神咲」の表札を撫でる。……本当に、見栄っ張りで、虚勢ばかりの、完璧主義者な両親でした。
良く考えれば、この家に、それも二階の私の部屋に、よく天海さんは定期的に無断侵入が出来たものですね。
……懐かしいなぁ。会話も、表情も、温度さえ、まだ鮮明に覚えてる。

高校。中学。通う予定だった、大学。当時彼女と来たことのある水族館。……そういえば、何人かいたうちの彼女の1人と鉢合わせて、ここで別れたんでしたっけ。言われたから許可を出しただけで、もうその名前すら覚えていない。こっちの路地裏を抜けると、そうだ、虫を食べる、どこかの外国の店があって、あの頃はずっと避けていた気がする。それから小さな公園、毎日大きな犬が散歩していた細い道。……。……天海さんの、家。幼い頃、何度かお世話になったことがある。彼の祖母と両親が一緒に暮らしていた。
立ち入り禁止。20年近くもその札が剥がされない、きちんと清掃もされていない街には、ドス黒い染みがまだあちこちに広がっている。小さな白骨らしき欠片が、瓦礫をどかせばすぐそこに転がっている。
見た事のある、近所のおばさんだったのかもしれない。そういえば同級生の中で可愛いなんて噂されていた、大学生だったかもしれない。よく駆け回っていた、小学生の集団のひとりだったのかもしれない。なんて、そんな事にはあまり興味は無いけれど。ただなんとなく、こんな終わりは嫌だな、なんて、他人事のように思う。存在すら誰も分からないで、世界から忘れ去られて終わりだなんて、そんなの。

「……寂しいですよね。きっと」

変わり果てた街を、そっと見渡す。
いつかまた、この場所も、昔のように。なんて、優しかった怜なら、きっとそう言うのでしょう。
……私は、もう。

自分の気持ちに、随分と鈍感になったと思う。何が楽しくて、何が面白くて、何が好きで笑っていたのかが思い出せない。
神咲東は、結局、虚像でしかないから。

辛うじて形の残っていた、高校に戻る。国立大学附属の、偏差値は一番高かった高校。……入学できたところで、何も変わりはしなかった。
校内に、まだ同級生の名前が残っている。担任の名前も、あの日の日付も、変わらないままで。

「ふふ、私、次の日日直だったんですね。嫌だな、17年越しに知りました」

きっと、朝早く来るつもりなんて微塵もなかったのだろう。教卓に立つと、高校時代の記憶が、綺麗なところだけ浮かび上がった。

「……どこだったっけな。確か、窓際の、……ふふっ。机に絵描いちゃ駄目じゃないですか」

窓際、後ろから2番目。油性ペンで描かれた、残念ながら画力は今と何ら変わらない猫のらくがき。
座るとガタガタ揺れる椅子が、懐かしかった。
机の中に、未記入の課題が置きっぱなしにされている。名前すらも書いてない教科書、無理やり押し込まれたジャージ、ぐちゃぐちゃに丸められた、98点の、……プラスとマイナスを間違えただけの、あと少しで満点だった数学のテスト用紙。奥底に眠っていた、丸まった体育祭のしおり。

「……ああ、選抜……そういえば、アンカーだったのでしたっけ」

体育の実技項目はずば抜けて良かった分、こういうものにはよく選ばれていた気がする。……押し込まれた、上のジャージに目をやった。

「……、……ふふ」

後ろの、神咲東、と書かれたロッカーを漁る。案の定出てきた体力測定の結果用紙を持って、校庭へ向かった。流石にスニーカーは使い物にならなそうだが、もう履きなれたこのヒールで、今更走るのが怖いなんてこともない。あの頃のように、外へ。
別に綺麗である必要は無い。邪魔な髪を乱雑にまとめて、上着を脱いでそこらに放って、飛ばないよう上に荷物を置いた。持ってきたジャージを羽織って、倉庫から、タイムウォッチを持ってきた。1周200m。

「……1500m、勝負ですよ。東」



「っ、はぁっ、はーッ……ふっ、あははっ」

数字は、あの日の記録から数秒遅れて止まった。土の上に、倒れるように寝転がる。ここから見上げる青空は、あの日と何も変わらなかった。

「あーあ、負けちゃいました、……残念……」

16歳の神咲東の記録を、指でなぞった。両の手を投げ出して、呼吸を整えて、空を見上げる。青空を綺麗だと思ったのは、それほどまで見上げたのは、いつぶりだろう。
無音の世界で、終業を告げるチャイムの音が、聞こえた気がした。

教室に戻る。途中、ふと、廊下に張り出された試験の結果を見た。
堂々一位に君臨する、大嫌いだった同級生の名前。その四つ下に、自分の名前を見た。珍しく勉強した時だって殆どが平均の下くらいだったのに、この時はもっとちゃんと、……ずっと前から、確か1ヶ月半も前から、勉強したのに。それでも、結局五位止まりで、満点の科目なんて、ひとつもなかった。
もし一位だったら。
もし全科目百点満点なら、一位だったのに。一つくらい百点だと、思ったのに、……数学は、自信あったのに。

「……頑張ったのになぁ……」

無意識で溢れたあの日の心の内を、口からこぼれ落ちた未だ燻る小さな本音さえも、知るものは誰もいなかった。
日本一の学力とされた国立大学附属の、有名な高校だった。楨恵学院大学附属高等学校、その首席。本当は、ずっと、ずっと憧れていた。
毎日まじめに授業を受けなかったからですよ、なんて、そんなふうに責める私は、まるで怜みたいだ。……私は、東なのに。


学生時代のように、教室の机に荷物を置いて、身一つで廃校内を探索した。まだ、机の影からあの人懐こい金の短髪が脅かそうと飛び出してくる気がする。すぐに抱きついてくるアクセサリーだらけの茶髪が、今か今かとタイミングを見計らっている気がする。図書室に入れば、サボりだと決めつけた図書委員の非歓迎的な声が聞こえる気がする。音楽室でピアノを弾けば、意外だの、似合わないだの、野次ばかりだ。
暫く後に、教室に戻った。ここは、18の時から、変わってない。もう販売終了したジュースが、古い、昔のパッケージが、ゴミ箱の一番上に捨てられている。17年前の大会の表彰状が、まだ最新で飾られている。もう要らない書類の日付も、最後の日のままで。

「……っ、?」

視界が滲んだ。地面に、水滴が跡をつくった。

「……。……別に、それ程思い入れもないでしょう」

不思議なもので、何故流れるのかもわからない頬を伝うそれは、流れていることを当人が認識した瞬間に主張を強めるものだ。教卓にもたれるように、ゆっくり倒れるように床に座って、ボロボロと、次から次へと、流れ落ちる涙を袖で拭って、しゃくり上げそうな声を殺した。
生きていくはずだった。……この街で。

噛み締めた口の端から、血の味がする。
誰かの前でこんな失態はきっと犯さない癖に、誰もいないのが寂しいだなんて、図々しい。
それでも今は、誰もいないから、ほんの、少しだけ。
自分の手で、そっと自分の頭を撫でた。両親の手を知らないから、想像するには、逆に都合がいい。きっと、つり目で冷たいこの顔が似ていないように、手すらも、どちらにも似ていないだろうけど。

「……本当に、ふたりのこなんですか……私……」

返っては来ないし、返ってきて欲しいとも思わない。帰ってきて欲しくない、……訳では、無いですけど。まだ、ほんの少しだけ。

しばらく後、相変わらず誰もいないその場所で、自分の机に突っ伏して、ジャージを枕代わりに目を閉じる。やっぱり、布団よりも、何よりも、この体制が一番落ち着く。最近は、こうして眠っていると布団に行けとよく怒られるけれど。


「……い、おい、いつまで寝てるんだ神咲!!もう授業始まってるぞ!」

「ん、……ふふ……、……」



「……うるさいなぁ」

……、なんて、懐かしい、喧騒だ。


眩しい光に目を覚ますと、今にも日が沈もうとしている所だった。廃都を照らす鮮やかな夕焼けは、まるで窓という額に飾られた絵画のようだ。

「……、……」

水道の所の、鏡の前に立つ。……別に、自分の造形は嫌いではない。かなり、整っている方だと思う。それこそ、謙遜することの方が失礼だと思う程に。
絶世の美人だとコメントを付けられて、勝手に知らない盗撮画像が出回ったことがある。枢機卿として少しテレビにでも映ろうものなら、私だけに集点をあてた録画が、スクリーンショットが、勝手に知らないところで広がっている。別に、そんな事はどうだって良かった。昔から、なんの努力もしてない顔と運動神経だけはよく褒められたから。かわいくデコって待ち受けにしました、なんて猫耳リボンを見せられて報告された時は、少しどうしたものかと思ったものですけれど。
それでも、十数年ぶりに見た、泣いた後の顔は、随分不格好なものだと思った。

「……、……はぁ」

 こんな姿じゃ、帰れませんね。なんて、なんとなく思って、自分にもまだ体裁を気にする心はあったことに少しだけ驚いた。
とはいえ、空調も効かないこんな場所は、11月も後半の夜ともなればさすがにかなり冷え込む。流石に場所を移動しようと、体育倉庫や職員室……などと考えたものの、結局足が向いた先は自宅の跡地だった。
勿論、同じように空調などない。壁も、天井も、殆どない。自分でも、なぜ来たのか分からなかった。高校の方がまだ暖かそうな程に、ここは、風すらも防いでくれない。いつ頭上に瓦礫が落ちてきてもおかしくないくらい、ボロボロなのだから。
……それでも。

一歩、前に踏み出す。おかえりなさい、兄さん。そう、馬鹿みたいに嬉しそうな笑顔で駆け寄る弟の声が、鮮明に脳裏に浮かんだ。

「……れい」

返事は、当然あるわけもなかった。あの日とは違う、暗闇だけがそこにあった。
電気も通っていない、月の明かりだけが照らす廃都。瓦礫の下、目に付いた穴だらけの、ボロボロな父の布団を引っ張り出して身を包むと、土埃まみれのソファの上で目を閉じた。

眠るのは嫌いです。いつだって、長く眠ればその分嫌な夢を見るから。嫌だと思う理由すらもうよく分からなくなってしまったけれど、それでもなんとなく、不快感だけが残る夢を。
それなのに、どうして今日は、こんなにも眠ってしまいたいのでしょう。目を開けていることすら億劫なのでしょう。どうして今日は、朝からずっと、こんなにも。

「…………疲れた……」

夢を見た。名を呼ぶ声に手を伸ばした先は、温かくて、眩しくて、心地よかった。

「東」

そう、笑う声は両親じゃない。怜でもない。宗でも、ない。私の過去の、誰でもなかった。
目を開けた。6時間ほどしっかり眠ったようで、時刻は23時を少し過ぎた頃だった。身体が酷く冷たい。まだ、柔らかな満月の光が照らしていた。

「……ああ、……そうか」

私の居場所は、帰る場所は、もうここじゃない。
……私は、生きてるから。
生きているから、記憶の中の面影も、二度と叶う事のない未練も、ここに、過去に、置いていこう。思い出にある景色とは似ても似つかない、ボロボロの廃墟に。
表札を撫でた。大嫌いな神咲の文字は、相変わらずそこにある。

「……さようなら」

次ここに来るのは、積み重なった後悔に目を向けて立ち止まるのは、私の手の届く範囲の望みが全て叶った後にします。
だから帰ったら、温かいシャワーでも浴びて、たまにはちゃんと、食事でもしようと思った。
教会の地下、見慣れた扉を開けた。バタバタと、足音がした。走ってきた彼と目が合えば、ぱぁ、と、分かりやすくその顔が綻んだ。

「東! おかえりー!!」

返答を、返すより先に矢継ぎ早に悠が口を開く。

「んだよ昼間帰ってくんだと思ってたのにド深夜じゃん!?詐欺だろ!日付……あああ変わっちゃう変わっちゃう早く入れって!!」

靴を揃える暇もなく、悠が腕を引いて早足で歩いた。転びそうになりながら、とっくに追い抜かれた、ほんの少し高い背の悠を見上げる。

「え、ちょっ、なんっ……です、か」
「何って、11月20日でしょ?今日。そろそろ21だけど」
「ええ、そうですけど、それが何……っ、わ」

扉を抜けた瞬間、軽い爆発のような音が四方から聞こえた。それと同時に、おめでとう、と何かを祝う複数人の声も。

「……なに、っつった?誕生日だろ、忘れんなよ」

キラキラと、輝く紙吹雪が舞う。呆れたような悠の言葉に、ようやくそれを思い出し「ああ」と声を出せば、「嘘でしょ、ガチで忘れてたの?」と悠が、愉快そうに笑った。

「20日に帰るーとか詐欺じゃん東さーん、あと5分なんだけどー??」

真尋が待ちくたびれたよーと笑いながら冷蔵庫から出してきたらしいケーキの上のイチゴをつまんで、実尋がそれを咎めている。ミアも食べたい、と遠くから声が飛んで、そこに「それなら、こちらの余った分を食べてくださいませ。真尋さんもですわよ」と真理の声。二人から責められた真尋は、特に気にしてもいない様子で「はーい、ごめんなさーい」と笑った。叶音は、顔面に向けてクラッカーを発射した零翔と何やら話しながら、彼が頭から被った紙吹雪を払っていた。

「……、急いで、帰ってくるべきでしたね。今日は」

そうソファに座ると、悠が切り分けたケーキをふたつ持ってきて、片方を目の前に差し出す。そして、すぐ隣に座った。

「マジでねー。おっせーよ。全然連絡通じねーしさ」
「おや、心配させてしまいましたか?」

そう笑えば、悠のことだから、何言ってんの、とでも返してくるかと思ったのに、短い沈黙の後で小さく「うん」と返答があった。寄りかかってくるその姿が、柔らかい髪が、小さい頃と変わらないな、なんて。

「……。そうですか。ごめんね」
「……おかえり。東」

悠が、寄りかかったまま少し振り向いて笑った。

「ただいま」

私の、帰る場所は。

「つーか何?寄り道でもしてきた訳?」
「ふふ、ええと、……すみません……」
「はー!?お土産は!?おーみーやーげー!!」
「ありませんけど」
「はあ!!?……はーー。ったくもー、しょーがねーなー!んじゃ明日一緒に買い物行こーぜ、付き合ってよ」
「……まあいいです。お菓子はひとつまでですよ」
「何歳児だと思ってんのー?つーかさ、なんか奢れよ。マージーで、心配したんだからな!」
「……。それ以外は、自分で払うつもりだったんですか?成長しましたね」
「あー!!今のナシナシナシ!!」
「ふふっ、はいはい。好きな物買ってあげますから、許してください」
「……ふふん。いーよ、悠くん心広いから!」

悠が、早々に食べ終わったお皿を持って勢いよく立ち上がった。

「んじゃー、また明日な!校門まで迎えに来てくれてもいーんだぜ」

おやすみ、と悠が食器を片して一足先に就寝の準備に入った。

「校門まで、って……珍しい子ですね、あの子は」
「自慢なのでしょう、東さまが」
「私が?まさか、私はただの一枢機卿ですよ」
「あら、あの子、東さまのことをいっつも得意気に話しておりますのよ。本人は、隠せていると思っていらっしゃるようですけれど、ふふ」
「おやおや……その調子じゃ、まだまだ親離れは遠そうですね」

バタバタと、随分楽しそうな足音が聞こえる。
真冬の深夜だというのに、心地よい暖かさだと思った。思わず、頬が緩んでしまうほどに。

@2025 ヰ嚢

bottom of page