月華
燃え尽きた教会の瓦礫の中で、夜闇を照らす満月を、瞬きもせずに眺めている男がいた。
瓦礫で潰れた半身が、脳が、ぐちゃ、ぐちゃと生々しい音を立てて修復されていく。解けてぐちゃぐちゃに乱れた髪が、それでも以前の丁重な手入れを思わせるように穏やかな風に揺れた。そして、その整った顔がようやく元の形を取り戻した頃、乾いた目を潤すかのように、パチパチと数度瞬きをして、その真っ赤に濁った彼の目が、辺り一面を見渡した。
「……、……ここ、は」
12月30日。日付も変わったばかりの深夜、真冬の冷たい風が、頬を撫でた。瓦礫の向こうから、人々のどよめく声が聞こえる。
───ああ。全て終わったんでしたね。何も、叶わないままで。
「……ふふ。どうしましょうねえ、これから」
そう立ち上がって笑ってみたものの、もう返してくれる存在は誰もいない。
私は、何故生きているのでしょう。本来なら、きっと死んでいたでしょう。なら、まあ、きっと……元から、人間などでは無かった、それだけ。それならあのどこから出ているのかも分からない怪力も、すぐに治る怪我も、だいたい説明がつきましょう。きっと、あれほど嫌っていた悪魔の血が、自分にも流れていた。そういうことなのでしょう。
薄々、そう思ってはいたのです。本当に人であるのなら、おかしいと、……気付いては、いたのです。それでも、信じたくなかった。私は、……私は、人間でありたかった。瞳の色が金色であったから、私は人であると、何とか信じていられたのに。
……小さなガラスに映る、この目は。
まぁ生きているのならそれはそれで良いのです、悪魔だろうとなんだろうと。だって、ラッキーな話でしょう? 胴体を裂かれても頭を割られても瓦礫に潰されても腹を貫かれても腕が千切れても死なない、なんて素晴らしい身体なのでしょう。
……そう、素晴らしい。私は、だって、自我を失って暴走するような化け物になんてなりはしない。なった所で、どうせ失うものは無い。私のいない世界がどうなろうと知ったことでは無い、だから、ラッキーで、なのに。
「何故、……涙が止まらないのでしょう」
両頬を伝う涙が、とめどなく溢れる涙が、止まらない。死んだらそこで終わりです。 だから生きていられて、幸せなはずなのに。
……幸せって、どんな感情でしたっけ。
「何してるんだい、枢機卿」
不意に聞こえた男の声に振り返ると、切り揃えられた金色の髪に、何より目を引く真っ赤に光る瞳の持ち主が、こちらを見ていた。その綺麗な金髪と、なによりまだ幼気な声と落ち着いた話し方は、顔こそ初めて見たもののよく知っているものだった。
「……狐さん」
「はぁ。その呼び方、いい加減やめないかい?」
「どう呼べって言うんですか。名前も教えてくれないのに」
「ああ……そうだったね。あはは、まぁもう、なんでもいいや」
軽く瓦礫から瓦礫へ飛び移り、正面に立つ彼。月明かりを背に笑う、想像よりも更に幾分か幼いその姿は、何故か随分神々しくさえ見えた。そして何故だか、ほんの少し寂しそうにも、見えてしまった。
「貴方の素顔、初めて見た気がします」
「普段隠してるからね、そのはずだろう。……大丈夫?」
「? ……ああこれ、特に怪我はしてないのですよ。治ってしまいました。ふふ、便利な身体ですねえ、悪魔って」
そう言って腕を広げて笑って見せると、彼は呆れたような、不機嫌そうな表情でため息をつく。そして、
「別に身体の心配してる訳じゃない。ただ、……泣いてるから聞いたんだ」
なんて。
……泣いている?
あれ、まだ止まってなかったんですね。
「これ……よく分からないのですよね。あまり気にしなくて結構ですよ」
そう言えば、彼は尚更怒ったように「は?」と口にする。そうして、あるいは強がりだと思ったのか、
「何年生きていようと、どれだけ悪行重ねてようと、身近な人の死は素直に悲しんでいいんじゃないかい」
なんてこちらを睨んだ。
悲しむ。
私が?
そんな事は夢にだって思いもしなかったから、ほんの少し笑ってしまった。だって。
「だって、都合のいい、道具でしかなかったのですよ。簡単に使い捨ててしまえる、そこそこに強い便利な駒」
その癖、実際に駒が死んだら泣いてしまうのでは本末転倒にもほどがありましょう?
分からない。覚えてない。
私は、だって、……だって、ええと。……何のために、生きていたのでしたっけ。
神のため?信じてもいないくせに。
弟のため?そんなことを言えるほど、私は良い兄では無かった。
親友のため?むしろ彼の優しさに甘えていたのは私だ。
ならあの子の、……あの子は。利用したんだ、私が、私の欲望の為に。
なら自分のため、きっとそう。でも、それなら、私は、もっと。
……?
もっと、なんでしょう。
どうなりたいと、どうありたいと望んだのでしたっけ。脳が潰れたから、全部忘れてしまったのでしょうか。
……そもそも最初から、そんなもの覚えていましたっけ。
…………そういえば、ついさっき、なにかに腹を立てた気がする。
なにかに、……そう、なにかが、ええと。
なんだっけ。
なんでしたっけ。
のあちゃんが来て、怒られて、……何も叶わなくなって、私、わたしは。
……おぼえて、ないなあ。
どんな感情でしたっけ。
「チッ、ああもう、さっきから腹立つなぁ!らしくない!!」
「えっ、わ」
不意にグイッと体が持ち上がって、彼の顔が先程よりも近付いた。長い金色の睫毛、まだ子供らしい整った造形、……よく知る彼女をそのまま男性にしたような、そんな顔だった。
「あーあ、哀れだね。哀れで、愚かで、馬鹿らしい。本音から逃げてばかりの弱虫。傷付くのが怖くて怖くて堪らないんだろう?」
彼はそう挑戦的な笑顔を向ける。それから、少しの沈黙を挟んだあとで、小さく「お前は、誰の事が大切だろうと、隠す必要なんてないじゃないか」と呟いた。
……彼の狐の面に、先日までなかった黄色いリボンが付いている。少し端が焼け焦げ、血液の付着したそれは、とても見覚えのあるものだ。
暗くて、さほど興味もなくて気が付かなかったが、よく見れば泣き腫らしたあとのような目元だった。
慌てて飛び出してきたかのような、履き潰された靴だった。
小さく、本当に小さく、息の震える音が聞こえた。
「はぁ……。まぁいいや。別に君と話しに来た訳では無いし。これから先どうするのかは、精々自分で考えなよ」
そう言うと、彼は背を向ける。……やっぱり、ふわりと風になびく、月明かりに照らされて輝くその金色の髪が、どちらかと言うと海外らしい顔立ちが、……あの子と、とても似ていた。まるで、真尋と、実尋のように。双子の兄妹のようだと、思うほどに。
大切。
もしあの子たちのことを、本当に、大切な家族だと、思っていたのなら?
……。
……いえ、きっと、思っていた、のでしょう。きっと、楽しかったのでしょう、ずっと。……多分。
だってそうじゃなければ、この痛みは、なんなのでしょう。身体の傷は治ったはずなのに、呼吸が苦しくて、息が上手く吸えなくて、……まるで、宗と別れた、あの日みたい。
自分の感情なのに、人に教えてもらわないと分からないなんて。馬鹿みたいな話ですね。
いや、……教えてもらったって、予想でしかない。分からないんです、まだ。ずっと。
思えばいつからか、悲しみも、苦しみも、喜びさえ、意識して演じないといけなくなっていた気がする。
ただ、完璧な怜の代わりでいようと思ったのに。分からない事ばかり、増えた気がします。
あの時、確かに思い出したはずなのに。
せっかく、わかったのに。
……。
……?
……怜を、喪った。宗も失って、悠も、……歪めてしまった。全部、全部自分のせいだった。優柔不断で、自己中で、弱い私が生んだ別れだ。
愛しいと思ってしまえばまた、いつか失うその日が怖くて、彼の言う通り逃げていたのでしょう。
それでも愛しかったのなら。楽しかったというのなら私は、……私はこれから先、どう生きていけば良いのでしょう。だって、今更気付いたところで、もう何も残っていないのですよ。愛していたと伝える術は、……あったとしたって、こんなに醜い、悪魔の身体じゃ。
もう、どうしようも出来ない。
何も出来ない。
何も。何も無い、それしかない。
……何も無いのなら。もうこんな人生どうでもいい。
積み重なる瓦礫を、カツン、カツン、と足音を響かせて、上へ。頂点に立って、辺りを見下ろす。……予想通り。テレビの中継に、それから何人か、野次馬が見える。ざわめきが聞こえる。視線が集まる。ああ。……心地良い。
どうせもう普通になんて暮らせない。幸せなんて手に入らない。楽しみなんてない。不幸に溺れ、笑われる羽目になるのはこちらの番だろう。なら、生きる意味なんてない!
燃えて破れてボロボロになった服が、ぐちゃぐちゃに乱れた伸びた髪が、風に揺れた。微かな明かりに照らされて、ステンドグラスの破片がキラキラと光を反射して輝きを放っている。満月の夜、燃え尽きた教会の、真っ白な瓦礫の1番上。
人生終幕の舞台にとって不足はない。ああ、なんて素晴らしい!!
「ふ、ふふ、あは、ははははは!!!」
隠し持った、拳銃に手を伸ばした。
対人用の武器では殺せない悪魔を、殺す為の特注品。
悪魔は、要らない。
この世界に、たった一人だって要りはしない!!
「ふふ、ねえ、あはは。さいご、さいごに、みんなまとめて“救済”してあげましょう!!」
目に付いた悪魔を、撃ち抜いた。
ねえ、もう私、人間用の武器じゃ死なないんですよ。もう、化け物です。悪魔です。あーあ、なんで悪魔用、もっとちゃんと開発しておかなかったのですか? ねえ、あはは。
ほら、治っちゃった。
怖いでしょ? 面白いでしょう?
もっと、見て。
忘れさせなんてしない。無かったことになんてさせない。物語の悪役だというのなら、悪役らしく。もっと嫌って、忘れられない程嫌って、そして死に様までその目に焼き付けて!
今、この瞬間は、俺が主役だ。
もし本当に天国や地獄なんてものがあるのならば、きっと俺は地獄行きだろう。大人しく刑を受けるつもりなんて毛頭ない、地獄で好き勝手暴れてやろう。そして地獄の王の座でも奪ってやりましょう、そんなものがあるのなら、神の座だっていいかもしれませんね。ああそれとも生まれ変われるのなら、独裁国家の頂点にでも立ってやりましょうか!!
もう、未練はない。悔いもない。大嫌いな悪魔としてこんな世界に留まり続けるなんて、冷静になれば反吐が出る。それなら早々に別れを告げましょう、そしてもっと、もっと!もっと!!誰よりも、何よりも今、この俺こそが幸福であると!!
そう、ただそう、最期まで、笑顔で信じていたいから。
悪魔は要らない。
悪魔に堕ちたなら、私だってこの世界に要らない。
だって、悪魔は。
悪魔は、何よりも憎かったはずでしょう。それすらも忘れてしまったら、一体私は何を理想としていたのですか。
悪魔さえいなければ、普通に高校を卒業して、さっさと家を出て、大学に行ったって、就職を選んだって、……宗と、怜と、いっしょに生きていけたはずでした。
ああ、でも悠には会えないんですね。……そっか。そうですね。……あの子にとっては、本当の両親がいる方が、断然良いのでしょうけれど。
そういえば、ちゃんとシステムは作動してくれたのでしょうか。あの子は、何もしていませんからね。様子を見に、……いったって、悪魔なんかと会話はしたくないでしょうし、まぁいいでしょう。
ねえ、悠。
モニター越しに私の事、見えていますか?
「……──────、」
──だいすきですよ。
……完璧でありたかった。いつも笑顔で、優しくて、穏やかな人でありたかった。あーあ、最後の最後に大失敗です。みーんな怯えて、恐れて、一丁前に睨んでみて、ふふ。別に構いませんけれどね、私は幸せそうな笑顔なんかより、恐怖に歪んだそっちの方が断然好みですから。私は確かに貴方たちより幸福だと、そうなんの疑いもなく信じていられるでしょう?
大衆を偽善で騙した? そんな嘘の私を望んだのは貴方達でしょう? だって、きっと最初から、私なんかには無理な話でした。
銃口を、自分の頭に向けた。この弾が、最後。きっと、死ねるはずでしょう。
悲鳴が聞こえる。目を逸らすのなんて許さない。歓声や拍手喝采に包まれる正義のヒーローなんかにはなれないけど、悲鳴と絶望に包まれたこんな人生の幕引きも、まぁこれはこれで。
「さようなら、理不尽で、最低で、最高な世界。またいつか」
この舞台は、枢機卿の神咲東はここで一旦幕を閉じるけれど。ああ、そうですね。幕間とでも言いましょうか?
次は何を演じましょうか。聖職者は少し飽きてしまいましたが。まぁ、なんにせよ。
「そう遠くない未来でお会いできるのを、楽しみにしていますよ」
そう笑って引き金を引く。鮮血が、バシャリと辺りに飛び散った。
ああ、たのしかった。
きっと、きっと最高な人生でした、
……よね。