episode:06 絶望へと下る道
カチ、カチ、と時計の針の音が響いている。指し示す時刻は、まだ午前6時半をほんの少し回った頃だった。蛍光灯に照らされたのあの純白の睫毛が、揺れた。
「ん、ん……」
「おはよう、寝坊助なお姉ちゃん」
「うぉわっ」
目を覚ましたのあの目の前にいたのは、豪華な臙脂色の良く似合う、自信に満ちた笑顔を浮かべる茶髪の小さな男の子──世継瀬名だった。のあが驚いたように彼の名を呼べば、「もう呼び捨て? 別にいいけど」と、瀬名の目が少し不服そうな色を滲ませた。
のあが眠っていたのは、小さな倉庫のような一室に置かれた、クッションの上だった。のあとしてはまた倉庫か、と言いたくなるが、最初、ここで目覚めた時の場所とは雰囲気がかなり違っていた。倉庫のような、とは言えいくつか設置されているアルミ製の棚には本や小物が置かれており、壁はよくある白い壁、床は明るい色のフローリングといった、ダンボールが複数個置いてある以外はどこにでもあるような少し埃を被った部屋だ。どちらかと言えば、引越し準備の途中、と言った方がしっくりくるインテリアかもしれなかった。救急セットを手に持った夜宵が、奥のダンボールの影から顔を覗かせて「おはよう」と安心したように笑った。
「ほら、瀬名くん。脚貸して」
夜宵の言葉に、瀬名は「うん」と素直にその脚を伸ばした。その膝には痛々しい赤色が滲んでいて、浅い、とは言いきれなそうなその傷に付いた石の欠片やらを、夜宵が消毒液を使って洗い流した。その様を見ていたのあが「滲みそう……」と顔を引き攣らせれば、のあの方を見た瀬名が馬鹿にしたように鼻で笑った。ふと、のあが思い出したかのように口を開く。
「その服……秀は!? 秀が、荷物届けてくるって言って、そのまま……」
「秀って、さっき話してた人? 僕の荷物持ってきたの、柊真尋だよ」
「は、……柊真尋、柊、真尋って、大司教の?」
のあの問いに、瀬名が「こんな場所で同姓同名なんかいるわけないじゃん」と呆れたように返した。絆創膏を貼ってもらうところまで終えた瀬名が、座っていた椅子から降りて服を軽く整えた。
柊真尋が牢の鍵を開けた。そして、荷物を受け取った直後に警報が鳴り響き、その隙をついて真尋の動きを封じて逃げ出したらしい。隠れていたところを夜宵が通り掛かったので合流した、と瀬名は言った。
「封じてって、どう……」
「僕は、魔力は持ってる、悪魔と同様にね。けど魔法は自在に使えない、だからこれの力を借りてる」
「探してって言ってた杖?」
「うん。正確に言えば、欲しかったのはこの赤い宝玉……赤眸玉(せきぼうぎょく)って言うんだけど」
そう言うと、瀬名はその混じり気のない深紅の宝玉を、存外簡単に手の上に取り出した。人造石だと言うそれはそれこそ正しく眼球のような大きさで、瞳のような模様の艶のあるものだった。光を透かして、屈折して反射して、それは瀬名の手のひらに美しい赤色の光を落としている。瀬名はそれを柔らかい微笑みで愛おしそうにうっとりと眺めて、見せた。
「綺麗でしょ? 赤眸玉は、持ち主の魔力に呼応する。この石を通すことで、僕は相手の動きを止められる。一時的にだけど」
「それで、柊を止めたってことか。流石だね、簡単に手の内を明かしてしまうところは、まだ幼いけれど」
夜宵の言葉に、瀬名は「当たり前でしょ、僕まだ7歳なんだから」と返す。それに、と続けた瀬名が、笑ってのあと夜宵を見上げた。
「お姉ちゃん達、僕の事あんまり信用してくれてないみたいだったしね。僕が持ってる武器と言えるものなんてこれくらいだよ、少しは信じてくれる気になった?」
瀬名はそう話しながら手の上で転がしたその宝玉を、親指と人差し指で優しく摘んで、自身の右の目のすぐ前に翳した。まるで悪魔の瞳のようなそれが、瀬名の瞳孔と並んで、鈍く禍々しい赤を放ってのあ達を見つめた。そんな瀬名に夜宵が小さく溜息をついて、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「別に、信じていようがいまいが、私は君を見捨てるつもりはない。ちゃんと生きて親元に帰すつもりだよ」
そんな彼女の言葉に、ほんの少しの沈黙を返した瀬名は、しかしその沈黙を気にならない程度で切り上げ「そっか」と笑って、そして手に持った玉を元の位置に戻した。
「それと、僕がこれ使えるのは、あと1回が限度。どこかで魔力の回復が出来れば別だけど、あまり使えるとは思わないで」
そう言うと、そのままくるりと向きを変え、のあの隣、クッションの上に脱力したように座った。軽く埃が舞い上がって、それを追うかのように瀬名の目線が一瞬揺れた。のあが名を呼べば、「何?」と返事をするその声は、まだ声変わりなんて考えられないほどに幼い声をしている。膝の上で組まれた手は、細くとも大人とは程遠い、柔らかく小さな子供の手だ。そして、そんな瀬名と並べば大人びては見えるものの、夜宵だってまだ、のあよりずっと、ずっと年下に見えた。
「……大丈夫! 任せな、二人ともお姉ちゃんが守ったげるからね!」
勢いに任せたか、或いは勢いに呑み込まれたのか、のあがそう勢いよく立ち上がれば、少年と少女はただ「はぁ??」と、心底わけがわからないと言いたそうな声を漏らした。そんなふたりの様子に、肩を落としたのあが「いちお私実際に最年長だと思うんだけど……」と口を尖らせれば、瀬名が無邪気に「あははっ」と笑った。夜宵が呆れた溜息をこぼして、ふと思い出したかのように「そういえば」とのあの方を見た。
「藍葉、さっき「ゆうくん」って言ってたよね? あの子は、知り合いなのかな。私は、見たことがない子だった」
のあは「え、私そんなこと言ってたの……」と少し驚いた顔をした。そして、こっちじゃわりと有名なんだよ、と、柔らかいクッションの上に座り直した。
「あの子は、天海 悠(あまみ ゆう)。私はここの信者だったから、小さい頃に仲良くしてた」
「へぇ。単に疑問なんだけど、なんで有名なの? それだけなら、何も特別な子供では無さそうだけど」
「一人息子だよ、神咲東の」
夜宵の問いに、のあが答えるよりも先に瀬名が口を開いた。それは特に興味は無さそうで、むしろほんの少し気に食わないのか、不機嫌そうにも聞こえる物言いだった。それでも驚いたような夜宵を見て、胡座になった瀬名が、頬杖をついて続けた。
「元は孤児で、聖職に就く前の神咲東が拾った。就く前っていうか、時期的にはほぼ同時期なのかな? そこはあんまり詳しくないけど。それでそのまま神咲が育ててるんだって、誰かが話してるの聞いたよ」
僕も実物は見たことないけど、そう付け足して、瀬名が溜息をついた。その表情には、明らかに、隠しきれない不快感が滲んでいた。
「それだけ、それ以外に要因があるなら分かんない。それで、どうするの? 秀くん、探しに行く? 長居するのも、あんまり安全じゃないと思うよ」
瀬名の提案に、のあが夜宵をチラリと見る。夜宵はそれに、無言で頷いて返答した。
テーブルの上に置いてある、ペットボトルにまだ残っていた水を飲み干した。冷たさはもう残っていなくて、随分と温くなった液体が喉を通った。空になったそれをただ眺めれば、透明の柔らかいボトルの内側に付いた水滴が、重力に従って側面を伝った。
救急セットの中に入っていた数少ない応急処置品をいくつか拝借して、先導する夜宵について、その部屋を後にした。もし、万が一秀がここを見つけたのなら、何も無いよりもここにいたんだという証があればと、空のペットボトルは置いたままで。扉の音と静かな足音が、静寂の中に響いた。
扉を抜ければ、そこは先程いたフロアに比べてかなり生活感と温かみのある空間が広がっていた。全体としては相変わらず純白に近いが清潔で、どこか安心感のある、そんな空間だった。のあが、特に何を言うでもなく、その空間を見つめていた。なんとなく、どこかで見たことがあるような気がしていた。ほんの数秒の後、どこにでもありそうな家に似ているからだ、とのあの中で結論付けて、その場を後にした。
夜宵について、小さな扉を開けると、上下に繋がる階段の、踊り場のようなところに出た。壁に大きく掲示された階数表示には『B2』と表記されているが、上に向かう階段は、付近には見当たらなかった。夜宵が言うには、どうやら地下3階の魔力濃度はしばらく前に0.05程度まで落ち着いたらしい。流れるままに、下の階へと向かう。地下3階に辿り着いて、そのまま先程通った道──のあは気を失ってはいたが──を戻った。コンクリートの、冷たい音が響いていた。
秀が向かった先、瀬名を捕らえる牢があった場所は、煉獄と呼ばれる地下4階。しかし残念ながら、地下4階へと続く、先程開けたばかりのシャッターは既に固く閉ざされており、入ることは敵わなそうだった。そして、この近くに点在する魔力濃度調整器の数値は、現在0.3付近を上下している。
「魔力暴走でも起きたんじゃないの、地下で」
瀬名がぽつりと呟いた。それについてのあはよく知らないが、ボイラー室で見たアレこそが、この世界で一般的に語られる、蔓延る悪魔への差別を消えないものへとしている元凶とも言える最大の脅威“魔力暴走”と呼ばれる現象を起こした悪魔の姿だった。そして、あの時ですら、記憶にある限りあの機械、調整器の数値は0.02から変わっていなかったはずだった。
「……そんなに頻繁に起こるものだったっけ、あれ。私、さっき確実に一体殺したと思うんだけど」
「え、会ったの? よく生きてたね」
瀬名が、そう、感心とも驚きとも取れない声で反応した。そして、「あそこは、不安定な魔力を持ってる人が幽閉されてる場所。だから一応、比較的暴走は起きやすい環境だよ」と、左手に持った杖を、右手に持ち替えながら話した。続きを待つようにのあが瀬名を見て沈黙を返すと、僕は教師じゃないんだけど、と呆れたように瀬名が続けた。
「そもそも、魔力っていうのは基本的に身体に害のあるもの、っていうのくらいは知ってるでしょ?」
「えっと……生きた人間に無理矢理たくさん流し込んだら、場合によっては死んじゃうくらい危険なもの、って聞いたことある」
「前提として天使も悪魔も、大元は同じ。魔力を使ってる。それで、例えるなら、そうだなぁ。魔力は油で、人格が水。既に並々と水が注がれてる、どこにも隙間のない器の中に、無理矢理油を流し込んだらどうなると思う? 中身は綺麗に混ざる? 器は耐え切れるかな」
のあが首を振る。瀬名は、満足そうに「うん」と微笑んで、腕を組んだ。
「でも水が入っていなければ、その油は器を壊さずに、水を模して、代わりとして機能する。だから人間に魔力を流し込むには、器の中身を空にする、一度殺す必要があるってこと。その器が精神、心だよ、心が乱れて、割れて、崩れれば結局瓦解する」
そう言って、瀬名は杖の先端で、ひび割れた地面をそのまま押し割った。割れた地面の欠片を蹴り飛ばして、カツン、カツンと音が響いた。
「……瓦解した先が、魔力暴走ってこと?」
「そう、ご名答。器が壊れて、人格が形を保てなくなって、成れの果てがアレ。こんな環境下に置いてさ、精神が安定するはずないでしょ」
そう言うと瀬名は向きを変えて、ふわりと、服の裾が揺れた。そのまま、シャッターの方を静かに眺めた。固くて冷たいシャッターの向こうでは、今も尚、のあの知らない事件が起きているのだろう。殺人宗教、などという根も葉もないと思っていた噂は真実であったと、そういうことなのだろう。
「……ずっと信じてた場所なのに。ずっとここにいたはずなのに、何も知らないな、私」
そう言えば、瀬名は笑った。笑って、「これが真実だよ」とのあを見上げた。悪魔差別も、迫害も、人権なんて存在しないような扱いだって、歴史から何も変わってはいないと。だから嫌いなんだと笑って、夜宵の眺める機械の元へ向かった。のあも少し後に、それに続いた。夜宵は二人の会話を気にも止めず、ただその数値を見つめたまま、なにか考え込んでいるようだった。
「やばいの?」
のあがそう声をかけると、夜宵は少し驚いた顔をして、すぐに「あ、ああ、ごめん……」と取り繕った。
「やばい……うん。やばい、だろうね。まず、瀬名くんの言ったその可能性は、ほぼ100%ととっていいだろう。特に力の強い悪魔が暴走を起こした、そしてそれに付随するように、その魔力に影響を受けた他の悪魔が次々暴走を起こしていった……と、言うのが説として濃厚だよ」
夜宵が、冷静に淡々と、しかし神妙な面持ちでそう言葉を紡ぐ。「濃厚というか、実際この状況じゃそうだろうね」と、瀬名が腕を組んでそのシャッターを眺めた。すると唐突に、そのシャッターが向こう側から殴られたような振動と、ガァン!!という音を響かせた。それはかなりの衝撃であったことが伝わる程の激しい音で、数秒後、ジワ、と、地面とシャッターの微々たる隙間に、赤色の液体が覗いた。頭を殴られたような鈍痛がまた、のあを襲った。
「ッ……! 夜宵、瀬名、一旦離れよう!! これもし破れたらやばいって……!!」
驚いたような二人の手を引いて、地下4階に向かったはずの、一番最初の友人の無事を願いながら、そのシャッターに背を向けて駆け出した。
ほんの少し前に秀と手分けして探索した部屋のうちの一つ、実尋と出会った部屋の、二つ隣にある小さな部屋に入った。どうやら内側から簡単に鍵をかけられるようで、そのソファとテーブル、少しの本が置かれた小さな部屋の中で、呼吸を整えながら状況を整理した。
「……いつもはこんな事になる前に殺してたと思うけど。神咲がいないから?」
「いや……5年前から既に神咲はここにはいなかった、トップは柊真尋だったはずだよ。でも、普段通りの状況ではないことは確かだろうね」
夜宵が、そう言って横目でのあの方を見遣る。のあはと言えば座ることもせずに、落ち着かない、といった様子で部屋を巡回していた。
「広瀬のことが気になる?」
夜宵の問いに、のあは漸く立ち止まって小さく「うん」と答え、蹲った。所詮は知り合ったばかりの赤の他人、しかも信用度は地に近かったとはいえ、それでも死んでもいいだなんて思える程、のあは非情にはなり切れなかった。
怖くないかと聞かれれば、怖かった。今すぐに逃げ出したい程に怖かった。すぐに家に帰って、ゲームをして、暖かいベッドで眠りたかった。祈るように手を組んで、ふと、指切りをして約束を交わした、右の小指を見た。外に行ったら、そう約束をした。包帯を持ってきたのだって、秀がのあを庇った時の怪我を、まだ手当てしていないと思ったからだった。
「──ッ、私やっぱり秀探してくる、あんた達はここにいて! モヤモヤしっぱなしとかまじでやだ!」
恐怖心を押し殺すように、勢いよくそう立ち上がったのあを、夜宵が「ねぇ」と引き止めた。座ったまま、じ、とのあの目を見上げる夜宵の表情は、どこか心配しているようだった。ソファに座ったままで真っ直ぐ伸ばされていた細く白い脚が、片方だけ体の方向に折り畳まれた。その膝を抱え込むようにして、夜宵が口を開く。
「藍葉。君は魔力耐性があまり無さそうに見えるよ。私が行こうか?」
その言葉に、少し悩んで、それでも「大丈夫」と首を振れば、案外と言うべきか予想通りと言うべきか、夜宵はあっさりと「分かった」と微笑んだ。そして、ポケットの中から、1枚のカードを取り出した。それは、よく見覚えのあるカードだった。色も、形も、──名前の刻印まで全く同じ、正真正銘の柊実尋のカードキーだった。
「え、は、なんで!?」
「それなら、これは君に預けておくね、藍葉。本人に貰ったんだ、広瀬について調べている時に」
そう言って、夜宵がカードキーをのあに手渡した。そして、その判断に不満を漏らしたのは、それこそ軽く「勝手にしたらいいじゃん」とでも言うかと踏んでいた、瀬名の方だった。待って、と瀬名の手が、のあの手を掴んだ。
「ねぇ、のあちゃん。僕も行きたい」
「……、あんたの命まで守りきる自信ない。ここで、夜宵と待っててほしい」
「守れなんて言わない。自分の身くらい自分で守れるよ」
のあの言葉に、なおもそう食い下がった瀬名に、瀬名の背後から夜宵が冷たくも聞こえる物言いで一言「守れないでしょ」と言い放った。
「……どういう意味?」
苛立った様子で、瀬名が振り返る。夜宵はといえば、瀬名の方を見ることもなく、折れてしまったらしい爪を気にするように弄りながら言った。
「そのままの意味。瀬名くん、忘れたの? その力を使うのはあと1度が限度、って、自分で言ったでしょ?」
話しながら夜宵が立ち上がると、瀬名の持つ杖、その赤眸玉を指さした。そして、そのまま瀬名の胸元を指差して、とん、とつついた。
「それとも、その私よりも小さな身体1つで、戦えるとでも言うのかな」
そう言われると、彼の饒舌さが身を潜める程度にはその事について自覚していたのか、瀬名は夜宵を睨んでからチッ、と小さく舌打ちをした。そして、くる、と踵を返し、拗ねた子供のように、不機嫌そうにソファに身を投げ出した。
「君は、馬鹿じゃない。むしろ、大人も顔負けだろうね。だから何が一番最適なのか、よく分かるはずだよ」
そう言って頭を撫でる夜宵の言葉に、全くの無言を貫く瀬名。しかし、のあが部屋を出る直前になって「のあちゃん」と、こちらは向かずに口を開いた。
「ねえ、……ミアちゃんに会ったら……」
そう、何が言いかけた瀬名だったが、しばらくの沈黙を挟んで「やっぱり、なんでもない」と顔を伏せた。