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episode:02 旧棟

 さて、無事に電気が機能したことでようやく姿を現した、質素な鉄扉のドアノブに手をかけた。内側からも鍵が必要というそれなりに面倒な構造は、それだけで正直脱出を諦めさせるようなものだが、覚悟を決めたかのようにのあは手首を左右に捻った。

 が、それは無機質な音を立てるばかりで、二度も三度も奇跡は続くことがないことを無慈悲に告げていた。いくら立て付けが悪いとはいえ、一般市民の力では到底こじ開けることは不可能だと言えるだろう。はぁー……と、安堵感から来るものではなさそうな深い溜息が、のあの口から溢れた。


「救世主様ぐらい、とか言わないけど、はぁ。せめてもう一回、いや二、三回くらい、奇跡とか起こしてくれたって」


 そんな贅沢を言い終わる前に、背後のダンボールが音を立てて勢いよく崩れた。


「う、ぇ!?」


 ドサドサドサ、と激しい音を立て、辺りに数年前の日付が記された貼り紙や書類、それから非関係者には何が何だかイマイチよく分からない小物等が散乱した。恐らく仕分けされてあったのであろうそれらは、きっと片付け作業をするのだろう見知らぬ誰かを哀れみたくなる程に、種種雑多に散らばっていた。


「うわうわうわ……え? これ私のせい? か、神様……いや触ってないし……」


 特に誰かがいる訳でもない、神に対してだとしたってそんな言い訳が通じる訳もない。ただ無意味な言い訳を繰り返し、のあはその山に近付いた。時期や素材によって色とりどりの白と、その上に陳列する黒。殆どがその二色で完結する無彩色。放置するのも申し訳ないので少しくらいは纏めておこうと手を伸ばした先に、キラ、と光を反射する何かを見付けた。


「……、……鍵?」


それは、例えるのならば子供向けのオモチャにでも付いていそうな程に──さすがにそこまでセキュリティを心配したくなる程単純な形状では無いのだが、それに近い──簡素で、見失ったら最後、見付けるのにかなりの苦戦を強いられそうな程に小さな、銀色の鍵。興味に負けたのあは片付けるつもりだった書類達を適当にダンボールの中に詰めると、埃をかぶったそれを拾い上げた。


「いやいや、流石にそんな都合のいいこと」


鍵穴に差し込んだ。


──ガチャリ。


「…………あるんだ……」


 事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだろう。あまりにも呆気なく、その重たい鉄の扉は前方に続く白い空間を目前に晒した。一際目を引く、緑色の鈍い光を放つ数値が表示された謎の機械。そこから排出されているのであろう生温い風が一瞬頬を撫で、のあの新雪のように濁りのない白銀の髪を揺らした。無機質で小さなその空間は、所々張り巡らされた太さの様々な鉄パイプと、地鳴りのような低い機械音が異質な空気感を醸し出していた。正面には先程出てきた部屋のものと同じ鉄の扉が、まるでプラスチックで出来た薄い板かのように折れ曲がって佇んでいる。構造が同じであれば通路側に開く硬いはずのそれは、正反対の方向に無慈悲に叩き付けられていた。そして向かって左方面には、簡素な木造の扉が構えている。


「は、ほ、ほんとにどこだよ、ここ……!」


 鼻につくようなこれは、病院を彷彿とさせるような、薬品と消毒液の香りだ。その中にほんの少し鉄の臭いが混じりあった、独特の空気だった。一歩、また一歩と、普段よりも倍以上遅いペースで、のあは足を前に進めた。ただでさえ薄暗い部屋の切れかけの蛍光灯が時折点滅し、どこかから水滴の滴る音が響いていた。これは、まるで自他ともに認めるほど大のゲーム好きであるのあが唯一苦手とする、FPSやアクションゲームとは違った緊迫感と恐怖感が押し寄せる、あのゲーム。


「あれえ、こ〜んに〜ちはぁ〜!」

「ひ、ッ───!!!!?」


 背後に唐突に感じた衝撃に、声にならない悲鳴をあげた。まるで、のあが心底大嫌いな、ホラーゲームのようだった。

 恐怖心と多少の怒りから、睨みつけるように振り向けば、170cmは軽く超えていそうな黒髪の男がのあの背後にくっ付いている。その男はニコリと笑うと、体制を整えてひらひらと笑顔で手を振った。


「はじめましてえ、君も迷子〜?僕もねぇ、迷子なんだよねぇ……」

「は、はあ……そうですか……ではお互い頑張って出口を探しましょうさような」


 人であったことへの安堵感と、人であったことでの恐怖感。見ず知らずの他人に急に背後から抱きつくような変な男からは、逃げるが吉であろうことは明白。そう背を向けた矢先、思ったよりも強い力で腕を握られて引き止められた。恐らく不審者に遭遇した時のそれと同じ冷や汗が背を伝う暇もなく、彼が不満げに口を開く。


「待ってよお、一人じゃ寂しいじゃん。僕怪しいひとじゃないよ?僕ねぇ、広瀬 秀(ひろせ しゅう)!秀って呼んで!星光大学(せいこうだいがく)の二年だよぉ」

「うっそでしょ大学同じなの!?」

「え?そーなの?わぁーい」


 果たして何が「わぁーい」なものかと、驚きのあまり余計な個人情報を与えてしまったのあが若干後悔していることなど知る由もなく、まるで名前のイメージからかけ離れた性格の彼は楽しそうに次の質問を浴びせてきた。


「君は〜?君の名前!あわかった当てたげようか、えとね、えとねー、ニャ」

「あんたがあらゆる方面から怒られそうな名を発しようとしてることは分かります」

「あれー?」


 この前完結した某ライトノベルの主人公の、恐らく目と髪の色が同系色ということ以外に特に共通点は無いキャラクターの名でも出そうとしたのだろう彼は、相変わらずへにゃへにゃとした気の抜けた笑顔で上半身ごと首を傾げた。


「てか、……どこから……」

「そこの壊れてる部屋!起きたら閉じ込められててさぁ〜、電池とか爆発させたら扉開くかな?と思ってやってみたんだけど。巻き込まれてさっきまで気失ってたんだよねぇ……」


 その時怪我しちゃってさあ、と頬に貼った絆創膏の角を弄り、しょも……としてみせる秀。そんな姿に半ば呆れ顔ではあるが、しかし緊張と恐怖に支配されていたのあの表情は、一変してほんの少し頬が緩んでいた。とはいえ、その理由が“別の恐怖が歩いてやってきたから”とすれば、果たしてどちらの方が良かったのか定かではないが。

 秀の背後。そこには、先程と変わらない光景。


「……、…………?」

「ねえ。名前教えてよ」


 何かに違和感を感じたのあの思考が、秀の何気ない言葉で現実に引き戻された。


「こんなとこ早く出たいもん、なんもなくてつまんない! 一人より二人の方が確率高いでしょー? だから協力しよー?」


 仲間の名前も呼べないと不便じゃん、と、膨れる秀の初対面というには近過ぎる距離感に若干引きつった笑顔を浮かべたのあが自己紹介をすると、秀はパァッと嬉しそうに顔を綻ばせて笑った。


「のあちゃん! いい名前だねえ、よろしくね!」


れっつ探検だー、などとはしゃぐ、状況を分かっているのかいないのか、能天気な秀。手を引かれてのあも木造扉をくぐった。後ろを振り返っても、何の変哲もない、何度見ても変わることの無い景色だ。

 扉を抜けた先に広がっていたのは、コンクリート造りの施設だった。機械的だが年季を感じる造りで、ぱっと見ただけでもそこまで複雑な構造には見えない。正面には南京錠のかけられた鉄製の扉が佇んでいた。その左隣には、恐らくかなり広いのであろう部屋があり、この空間の中では特に際立って近未来的なカード認証式の扉が構えていた。向かって右側の壁は浅いV字型にくぼんで小さな空間を作り出しており、そこには十字架にかかる救世主の像が建てられている。隣の部屋は、のあ達が先程出てきたのと同様の木造の扉だった。


「わぁ〜……あはぁ、すっごいねえ!たのしくなってきたー!」

「クッソ、呑気な……ああ、もう!」


 思わず出た本音を飲み込んだのあが、更に辺りを見渡す。向かって左側、二つ隣には鉄扉の小さな部屋がある。そしてさらに奥、通路を挟んで向こう側には白く簡素な、例えるとすれば玄関のような扉が見えた。ここまでたくさんの扉こそ見つけたものの、しかし恐らく出口らしきものは無い。それどころか、窓すら少なくとも見える範囲には存在しない閉鎖的な空間のようだ。相変わらず地鳴りのように響き続ける小さな低音、点滅する蛍光灯。再度足が竦むようなのあの手を、秀が引いた。


「だいじょーぶ、僕が守ってあげる。一緒に外でよーね、のあちゃん!」


 子供のように無邪気な顔で、秀がそう笑った。どこか自信ありげな表情に思わず頬が緩むのを隠すように、彼に背を向け歩き始める。


「……頼りないなあ」


 その呟きに、秀はのあを小走りで追いかけて「えー、ひどーい!」と大袈裟な不満を漏らした。


 部屋を出て道なりに進むと、鉄の扉の少し手前にのあの背より少し低い、大きな葉の観葉植物──の、造花──と、中身の殆ど入っていないゴミ箱があった。なんとはなしにその中を見てみると、1番上に無造作に捨てられた何かの走り書きのようなものが見える。


「……? なにこれ」

「えぇ〜……僕ゴミ箱漁るのどうかと思う……」


 のあは頭上から降る批判を無視してそれを拾い上げ、丸まったそれを適当に広げた。それは、油性ペンで乱雑に書かれた誰かのメモだった。


「……《至高の天空に咲く純潔の象徴》?」

「しろばら!!」

「早々に回答ありがとうございます」


 いよいよホラゲーみを増してきた謎解き要素は、ある意味一切空気を読まない秀の発言でいとも簡単に回答を得ることが出来た。とはいえその『白薔薇』が果たして何を意味するものなのかまでは謎のままだ。ひとまず記憶の片隅にだけ置いて捨ててしまおうとした所で、秀が何かに気が付いたらしく「あれ?」と声を出した。


「ねぇねぇ〜、裏になんか書いてあるよ?」

「裏?」


 秀に言われるままに紙をひっくり返した。形状様々な四角と四角が組み合わさって整列している。線は歪でインクは多少滲んでいるものの、このフロアの地図であることは明確だった。部屋の名称を書いた文字の筆跡から見るに、どうやら裏のメモと同一人物が描いたようだ。


「やったぁ〜! 地図だ地図! どっかに出口あるかもねえ!」

「や、パッと見出口らしきものは無い……けど。このスペース、階段とかあったりしないですかね」


 このフロアの窓の無さ具合を見るに恐らく地下であるのだろう、そう予想をしたのあが、まず階段を探した。そんなのあを暫く無言で見つめていた秀が、「のあちゃんってさ」と口を開く。


「警察官か探偵さんかなにか?」

「は? いや、ただの大学生ですけど…」

「うん、だよねえ。そのはずだよね」

「……そのはず?」


 そのはずだよね。その発言に、のあは小さく一歩後ずさる。のあの不信感を読み取ったのか、少しの沈黙を挟んで秀が「だってさっき同じ大学って言ってたじゃん……」と軽く呆れたような表情を見せた。


「推理上手だなーって思ったから言っただけだよ。用心深いのは良い事だけどさあ、もうちょっとは信用してよぉ〜……」


 そう肩を落とす秀に、のあは「言うて私達初対面ですからね」と返す。会ってから一時間、それどころか三十分すらも経っていない、且つ行動の突発的でおかしな男を信じろ、という方が無理な話だろう。秀は、「え?」と──言うよりは「んぇ?」の方が正しいかもしれないが──気の抜けた声を出して、そのあとにようやく気付いたかのように小さく「ああ、そっかあ」と笑った。


「そうだったねぇ! いいよやっぱ、信用しなくて!」

「そんなことある??」


 困惑を隠しきれないのあと対照的に、楽しそうに笑う秀。


「だって、のあちゃんも女の子だもんね。年上の男なんて怖いでしょ? ごめんねえ」

 

 何気なく発されたその言葉は、気遣う言葉としてはなんの違和感も感じない言葉だった。普段ののあなら、何も気にはしなかっただろう。しかし、その情報を、のあは秀に与えていなかったはずだった。


「…………私、いつ一年生っつったっけ?」

「……。……ぜんぶ知ってるよ? 調べたもん」


 一瞬の沈黙が途方もなく長い時間に感じるほど、のあに押し寄せる不信感と、危機感。変わらない秀の笑顔は、この上なく不気味に感じられた。

 と、その時、そんな静寂を破るかのように秀が「ふ、あっはは!」と心底面白そうに吹き出す。感情が追い付かず沈黙するのあと対照的に暫く笑った秀は、「ああ面白い、うそうそ!! ごめんね? 冗談だよ」と目尻に浮かぶ涙を拭った。


「僕、浪人してるんだよねえ。だから年下かなあって思ってさ。ええと、そんなに怖がらせちゃうと思わなくて、……その、……余計警戒させちゃったかな……ごめんなさい……」


「ちょっとしたドッキリみたいなつもりだったんだよ」としょんぼりして見せる秀に、それでものあは一言「いえ、……別に」と返すより他なかった。



「えーっと、ここは……」

「ボイラー室?」

「ボイラーって何ですか?」

「知らない!!」


 どこに鍵がかかっていて、どこが入れる部屋なのか。それがなんとなくは把握できる程度に暫く辺りを観察しつつ歩いていると、小さく稼働音を発している部屋の前に辿り着いた。扉は鍵こそかかっているものの少し歪んでおり、そのせいで随分と防音性を損なっているように思える。

 地面にべったりと座り込み、その微々たる隙間から中を覗き込んでいる秀によれば「よく分かんないけどごちゃごちゃと大きい機械がある」そうで、そして彼の必死の観察も虚しく、残念ながらのあには「そりゃこれだけ機械音してりゃそうだろ」以外に感想が思い浮かばなかった。


「この扉棒とか押し込めばこじ開けられるんじゃない?」

「なんて?」


 不意に下から聞こえてきた脳筋な提案に、仮にも年上に対し敬語すら忘れたのあが困惑を滲ませた目を向ける。そもそもこじ開けてどうしようというのか、開いたからと言ってなんだと言うのか、しかしそんな事を聞いている暇もなく、思い立ったら即行動、秀が立ち上がってのあの手を引いた。


「目覚ましたとこさ、倉庫ぽくなかった? のあちゃん行こ、戻ろ、多分棒とかなんかあるって!」

「は、ちょっと……!!」



 結局、最後まで楽しそうな秀に無理矢理手を引かれ連れてこられるのあ、という構図ではあったが先程までいた一室に戻ってきた二人。ボイラー室の扉をこじ開けるのに丁度よさそうな棒探し、という、体力を奪うだけで大した意味のなさそうな行動に、正直のあはあまり乗り気ではなかった。


「はー……なんで私がこんな……」

「駄目だよ、ちゃんと探さなきゃ」


 先程から秀の話にはいはい、と軽く生返事だけして聞いていたのあだが、珍しく真剣なその声色に無意識にそちらに視線を向ける。秀はといえば、物で溢れた大きな箱を、のあの方をチラリと見ることもなくガサゴソと漁っていた。


「調べられるところは全部調べて、拾える情報は全部掻き集めるんだ。もうこの場所に戻れないかもしれない、必要になった時に、逃した情報で後悔したって遅いでしょ?」

「……」

「どこかに鍵があるかもしれない、どこかに道があるかもしれない。だから端から、端まで。……そうしたらさ」


 真剣に箱の中を見詰めていた秀の目線が、ふわりと笑顔を浮かべてのあの方を見る。箱を漁る際に傷付いたのか小さな傷を増やした手には、折れ曲がって本来使い道のなさそうな鉄のパイプを持っていた。


「きっと一緒に外行けるよ、のあちゃん」

「……。……うん」


 行こ、と、秀の手がのあの方に伸びた。対するのあの手には多少の迷いと躊躇が感じられたものの、その手を握り返してしまえば、ボイラー室前に着く頃にはもう慣れてしまったようだった。



──ガシャーーン!!


「うるっっ……さ!! ちょっと、これ人集まってくるんじゃ……」


 歪んだ扉を、棒を押し込んで力任せに開ける。それ事態は成功したものの、あまりの爆音でこれではのあ達を閉じ込めた犯人に「私達は脱走しました、今はボイラー室前にいます」と馬鹿正直に告げているようなものだ。と、思考を巡らせている間もなく、バタバタとした足音が聞こえてきた。


「ああああ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!!」

「っと、えっと……っ、あ、あれ!! あの箱、一人なら隠れられる、入って!!」


 そう言って、秀はのあをボイラー室に置き去りにされていた空の箱の中に押し込む。近くの物を適当に配置してカモフラージュしたおかげで、パッと見では気が付かないだろう。


「は!? あんたは、」

「……、捕まったら、助けに来てね」


 そう言って、震えた声で多少怯えたように笑った秀は、のあの返事を待つこともなく扉の外に走っていった。

 数秒後、外から微かに声が聞こえる。要点までは分からず、途切れ途切れにはなってしまうものの、少なくとも三人以上での会話であることは理解出来た。


「……は、……のままでいいのですか、今なら確実に……」

「大丈夫、今は……、それにここは……。実験にも、……」

「……した。大司教のご判断であれば、…………でしょう」

「(……大司教!?)」


 途切れ途切れにしか聞こえない会話の中、のあのいる場所までも確かにはっきりと聞こえた、「大司教」の単語。それがここ、中央大司教区のトップである柊真尋のことなのであれば、彼がのあ達を閉じ込めた犯人なのだとすれば、敵はあまりにも強大すぎる話だった。もしあの噂が真実で、正真正銘『ヴァルミナ教』が敵であったのなら、そして今なお泳がされているだけだと言うのなら、ただの一般人であるのあ達に勝ち目などないのは明白だった。扉が閉まる音がして、足音が遠くなる。早く脈打つ鼓動を落ち着けようと、のあはその場で深く深呼吸をした。


 柊、真尋。その名を、そして彼のことを、のあは知っているはずだった。しかし、顔も、声も、何故か思い出せない。それは、先程微かに聞こえた声が本当に彼のものなのか、それすらも判断できない程だった。彼についてだけなのか、もっと他に何か抜け落ちてしまっているのか。それすらも、分からなかった。

また、夢の中の声が反響する。

言語としては認識できないほどに朧気な声。


「──████████████」




 拾える情報は、全部掻き集める。信用ならない男の言葉だが、確かにそれはのあの中の意識を変えたらしかった。

 暗闇の中、スマホの懐中電灯機能を使って机の引出し、棚の中、床の隙間まで一つ一つ確認していく。勿論、スマホの電池は貴重なので一番弱い灯りなのだが、それでも物の有無を確認する程度であれば充分だった。特にめぼしいものも無かったのだが、部屋から出ようとしたその時、部屋の端、机の上に、キラリと光を反射する何かを見付けた。


「これは、……また鍵? なんか書いてあるけど、暗すぎて読めないな。一応持っとくか」


 それは相変わらず小さな鍵で、文字の書いた小さなストラップが付いている。ひとまずポケットに突っ込み、ドアノブに手をかけた。


手首をひねる。一回。二回。……三回。


「……あかない」


 血の気が引いていく、とはこういう感覚のことを言うのだろうと、のあはドアノブをガチャガチャと回した。先程の鉄パイプは外に置いたままで、ここは壊せそうもない大きな機械と、役にも立たなそうな小物だけが置かれた部屋だ。壊れているのを見る限り鍵を使って閉められた訳ではなく、室内から開けることは出来なかった。大司教やその仲間が閉めたのであろうことは明白だろうと、のあは自身の危機感の無さに怒りを抱く。とはいえ気付いていたとしても絶望が少し早く襲い来るだけで、この状況は変わらない訳だが。

 ふと背後から、小さな呻き声が聞こえた。ゆっくりと、振り返る。


「……は?」

「あ"  ァ ア" 、ィ"、あ? アマ"、ヒ」


 溶けて、所々骨の露出した上半身が、そこにいた。頭は皮で繋がっているだけのようで、だらりと重力に負け、垂れている。真っ黒く濁った、ドロドロした瞳で、ソレはのあを認識して笑みを浮かべた。


「……───ッ!!」


 のあの本能が、警鐘を鳴らしている。ここの他に、扉はない。通気口から這い出そうにも、ソレが目の前に鎮座している。その上、かなり天井近くに設置されたものに、よじ登るだけの余裕は無さそうだった。


「ぁあ、いー、ぇえええへへへへはへひひひひはへひひ」


 足の力が抜けて、その場に座り込む。刹那、溶けて本体と離れた腕が、物凄いスピードでのあの頭上を掠めていった。爆発音にも似た音を出して、壁に人が余裕で一人通れそうな程の大きな穴が開く。そしてその腕は、ドス黒く酸化した血液で繋がっているかのようにズルズルと本体の方へと戻っていった。


「ぃひひひひへへへははははははははははははははははははははははははははは」


 笑い声が響く。ソレの目は、先程から確実にのあの方を見つめている。べちょ、と音を立てて、ソレが一歩、近付いてきた。

 どうにか起き上がったのあが、壁の穴から外へ抜け出した。背後でまた爆音が鳴り、笑い声は絶えず響いている。ソレは本体のスピードこそ遅いものの、腕や血液を器用に使い着実にのあの方に近付いていた。今まで出したこともないようなスピードに、普段であれば自分はこんなに速く走れる、と得意げに自慢でもしてみせるのがのあだが、今はそんなことを考える余裕もなかった。白い玄関のような扉、地図に『警備職員室』と記載されていた部屋のドアノブに手をかけると、その扉は簡単にのあに道を譲った。

 棚の中、ダンボールの中、武器になりそうなものを探し、あらゆる場所をひっくり返した。あちらこちらの鍵がそこらに放置されているのはかなりどうなのかと思うのだが、またしてもどこかの鍵を見付けたのでついでにポケットに押し込んだ。そして引き出しを開けた時、片手サイズの黒い光沢のある『アレ』を見つけた。


「け、……拳、銃……?」


 バァン!!と壁が悲鳴をあげた。ただでさえボロそうなこの施設の壁は二度目を耐え切ることは出来なかったようで、のあは再びソレと至近距離で対峙することになった。


「……は、はははははははははははははははははははははははははははははは」


 のあを確認したソレは、また頭の最奥まで深く突き刺すような笑い声をあげる。そして、腕を振り上げて──


──銃声が響き渡った。


「っ、……はぁっ……、……は……ッ」


 こんなところで、FPSで培った能力が生かされるとは誰も思いはしなかっただろう。たった一発残っていた弾で脳天を綺麗に撃ち抜かれたソレは、床に崩れ落ちるとかろうじて残っていた皮膚をドロリと溶かし、所々断片を残したまま赤黒い血溜まりへと変わった。漸くと言うべきか、今更と言うべきか、全てを理解した脳が身体を小刻みに震わせる。転んでいたら、効かなかったら、外していたら、それ以前にどこにも武器なんてなかったら、きっと今、のあはここにいないだろう。その事実に震えも治まらないままに、のあは立ち上がってその場を後にした。


 ──何かが、のあの脳裏に浮かぶ。

それはまるで、あの化け物に、心臓を抉り取られるような。恐怖のせいか、嫌な想像を膨らませてしまって、そしてそれのせいでまた、余計な不安が募っていく。

頭を振って、思考を追い払って、前へと進んだ。

 

「……秀、大丈夫かな」


 ぽつりと、のあがそう零す。あんな化け物が他にも徘徊していたとしたら、ただの一般人が二人共に無事、だなんて確率としてはそんなに高い話ではない。勿論、今後またのあが遭遇して殺される、という確率も含めての話だ。

 ここがもしヴァルミナ教会内部だと言うのなら、殺人宗教という噂は真実で、その上噂なんてものは真実のうちのほんの一部でしかないと考えるのが自然だろう。


「あああもう、考えてたって分かるわけないじゃん!! うるさいなぁ!!」

 

 のあがそう、頭を抱えて蹲った。そして少しの間唸った後に、今にも涙が零れそうな表情で、壁に飾られた十字架に手を伸ばした。


「大丈夫、ただの噂だよ、だって、だって神様も、みんなも悪人なんて、そんな訳ないでしょ……」


 のあの言葉は、信じている故の言葉というよりは、まるでそう、自分に言い聞かせているもののようだった。

 

「──あれ?」

「!!」


 聞き覚えのある声が、聞こえた。

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