
episode:05 煉獄
「あああああ!!!! 頭おかしくなりそう!!!!」
一人そんな悲鳴にも似た叫び声をあげるのは、地下に閉じ込められたのあだった。見渡す限りの死体、肉塊、血、血、血。気が狂いそうな程の血と腐敗の臭いにも、もう鼻が慣れ始めてしまっていた。
「くそ、もーー早く帰らせてよログボもイベントも逃してるのにーー!! たすけてーーーー!!」
もう何分たったのだろう。のあの青色の服は、裾が血で汚れて赤黒く変わっている。買ったばかりの白いスニーカーだって、血の跡がもう、何度擦って洗ったって落ちなさそうだ。
エレベーターの扉が、開く音がした。
「ッ!?」
咄嗟に死体の山の影に隠れた。綺麗なウェーブがかかった金髪の女性と、ミアと同じように純白の髪を持つ男性の姿。当然のように死体を投げ込むその二人は、こんな場所にいるには異質な服装から見て取れるように、ここの組織の一員だった。
「……あれ? 真尋さっきここって言ってなかったっけ?」
「言ってた……と、思う」
「だよねー? ついでに様子見とこうと思ったんだけど……まいっか。どっかにいるでしょ。手汚れたからお兄ちゃんが鍵出してよ」
「ああ、閉まってるのか。鍵……、あれ、鍵どこやったっけな」
「えー!? 何やってんの、後でちゃんと探しときなよー?」
「ああ、そうする。悪い」
そう雑談しながら、女性の方が操作パネルにカードキーを翳してなにか入力した。暫く後、エレベーター横、鍵のかかった鉄製の扉が、二人を迎え入れるように開いた。二人が居なくなって暫くしてから、先程触れていた操作パネルに、のあも触れたが、操作不可能の注意マークが出るだけで、どうやら動かせそうになかった。
「……。どう考えても、柊実尋のカードキー必要な場面じゃん」
こんな事になるのなら、一時の怒りに任せて、渡すんじゃなかった。しかし、後悔先に立たずだと、のあはくるりと踵を返した。先程二人が持ってきた死体、小柄な女性は、ミアの“お肉”にはならなかったようで、比較的綺麗なままだ。職員らしき服装をしていた。
「……、心苦しい〜……けど……失礼します……」
彼女をほんの少し抱き抱え、使えるものがないか探した。しかし彼女は、全て回収されたのか元からなかったのか、それ自体は定かではないが一つも物を持っていなかった。そもそもなにかを見付けたところで、パスワードが必要とでも言われたら、ここにはヒントすらもない。しかし、かといってのあには、他に縋るものもない。それなりに、運はいいと思っていた。もう、あとは秀が何かを見つけて戻ってくるのを願うことしか出来ない。他人任せ、それほどのあにとって信用出来ないこともないだろう。脱力したように腕を下ろした、その時だった。
「ねぇ、君」
「!?」
背後から、少女の声が聞こえた。それは空耳さえ疑うほどに小さな、かすかな声で、しかしはっきりと、確かにのあを呼ぶ声だった。
「そこの君だよ、純白の髪が綺麗な君。今振り向いた、そう。ねえ、少しこっちに来てくれないかな?」
声の方に向かうと、グレーの髪を一部猫耳のように結った少女が、鈍く光る深紅の瞳でこちらを見上げていた。
「ひッ……」
「やあやあ、初めまして。突然のお願いで悪いんだけど、コレ、抜いてくれないかな? 身動き取れなくてさ」
露骨に実験台専用と言いたげなその服装、細い手首には手錠がかけられている。小さく薄い腹に似合わない、太く血で汚れた鉄の棒が、横たわる彼女に垂直に突き刺さっていた。
悪魔は、人が死ぬような怪我で死ぬ事は無い。のあの目の前の景色の通りだが、貫かれたままで彼女はそう語った。あまりいいとは言えない感触、その鉄柱を引き抜いた。ぐちゃぐちゃと、みずみずしい音と共に、彼女のその傷が塞がっていた。そうして、しばらく後に彼女は立ち上がって、笑った。大きな赤い目でのあの事を見上げる、小さな少女だった。
「ありがとう! 助かったよ。刺さったままじゃあ治癒も効かないし、だっていうのに手錠のおかげでどうにも取れなくてさ。下手に動いたって痛いだけだし、困り果てていたところだったんだ」
「そ、そう……なんですね?」
「別に敬語なんて使わなくていい、私は君より幼く見えるでしょ? 私は古森 夜宵(こもり やよい)。君は?」
そう自己紹介をする彼女──夜宵に、のあも自分の名を返す。夜宵は「そっか。どうぞよろしくね」と、あっさりした言葉を返した。
「それで、この施設から出る手立てはあるのかな?」
夜宵の言葉に、のあは沈黙を返した。それは、施設どころか、ミアがゴミ捨て場と称したこの場所からすらも、出る手立てなどは見つかっていないからだった。
「……見つかっていないようだね。でも、それなら私は少し力になれるかもしれない」
そう言って夜宵が、隠し持っていたらしい白色のカードキーをのあの顔の前に翳した。そのカードキーには、「Rēto Mochizuki」と刻印が刻まれている。
「それ、……」
「天使専用のもの。もっと詳しく言うのなら、先程ここに来た子のもの。……何、彼は純粋な子だ。持ち物の紛失だなんて珍しくもない、誰も盗まれた、 なんて思いやしないよ」
夜宵はにっこりと笑顔を作って見せると、そのカードを今度は乱雑にポケットにしまった。
「とはいえ、私はパスワードまでは知らない。解除は、君の運頼みになってしまうかな?」
夜宵のその言葉の後、二人の間にはしばらく、あるいはほんの一瞬の沈黙が流れた。そして、運がいい、つい先程自信でその思い込みを否定することになったのあの、絶望か、はたまた怒りにも似た叫びが響いた──
「はぁ!? 結局運なの!!??」
──と。
一先ず、眺めて悩むよりは行動に移してしまうのが吉だと、操作パネルの前へと戻った。カードをかざす。入力画面は随分独特で、黒、緑、黄、青、赤色の薔薇の形のボタンが用意されていた。夜宵は後方で、のあが文句を言いながら適当にパネルを操作している所をただ黙って眺めていたが、退屈だったのか暫く後に勝手にそこに置いていたのあの荷物を漁り始めた。
「ちょっと、物色しないでくれる?」
「うん。……ああ、でも、随分いいもの持ってるじゃん」
そう言って、一枚の紙──手書きの地図を、夜宵は「ふぅん」と流すように眺めた。そして、暫くそうした後で、特に面白い、楽しいといった感情からくるものではないのだろう笑顔で小さく、くすっ、と笑った。
「これ、望月零翔の筆跡だよ。地図自体はほんの少し古いもののようだけど、誤差の範囲。そんな事より、やっぱり君は運がいいよ」
神様とやらに随分好かれているのかな、そう言って夜宵はそれをヒラリと裏返すと裏の文字──至高の天空に咲く純潔の象徴、その文字を、不敵な笑みでのあに見せた。
「ここに答え、そのまま書いてある。記憶媒体に限界が近い分、簡易的に変更された特別仕様のパスワードさえ、覚えていられないんだろうね。彼が非人間体、且つ不完全体であることが、私達に幸をなした」
さも当然かのように、夜宵はそう語る。
「……非、人間?」
のあのその、ポロと零れた疑問に、夜宵はようやく「ああ」と呟いた。
「彼は人じゃないよ。君、天使実験は知ってる?」
夜宵の言葉にのあが首を振れば、夜宵は「そう」と俯いて、言葉を選ぶようにして紡いだ。
天使実験。夜宵が言うにはミアもその被害者で、十歳にも満たない幼い子供を選んで、被検体とした、きっと誰が聞いても残虐だと言うような人体実験の話だった。
「私も詳しくはないんだけどね。彼は天使実験が始まったばかりの頃、もう10年以上前になるかな? その時に使われていた人形(ドール)のひとつだったはずだよ。最も、完全体が生まれなかったことで、今の人体実験に移行したようだ」
そう言うと、夜宵は溜息を吐いて、やれやれといった様子で首を振った。
「全く、勝手な話だよね。それだけだよ、早くパスワード解いてくれないかな。答え、あるんだから簡単だよね?」
地図をのあに押し付けてくるりと踵を返した夜宵は、壁にもたれてそのまま退屈そうに地面にしゃがみ込んだ。一切手伝う気もない、恐らく答えも知っているのだろうにヒントも与える気がないその様子に、のあは果たしてこいつは脱出する気があるのだろうか、とでも言いたげな若干の不服さを滲ませた。
「……白なんてないけど」
「あるよ。あるよ、探してご覧。光に目を向ければ、見えるはずだよ」
のあの問いに、夜宵は地面に落ちた石の欠片を転がしながらそう答えた。相変わらずの夜宵の様子に、諦めたようにのあは操作パネルに向き直る。表示されているのはやはり、白、なんかには程遠い、カラフルな画面だった。少しひび割れたその画面は、一部画面に縦線が入っている。暗いこの空間で薄ぼんやりと光を放つパネルは、それだけでも少し不気味だった。何度見ても、白色の薔薇なんて無い。黄色や青色なんかと違って、混ぜ合わせた所で白になる色なんてない。
「……、白?」
ふと、夜宵の言葉が反芻した。光に目を向ければ、見えるはずの白。白く微かに光る画面は、赤、緑、青色の三色に縦線が入っていて、そしてのあの脳裏には、ほんの少しだけ聞き覚えのある言葉が浮かんでいた。
「……光の、三原色……」
別名、RGB──レッド、グリーン、ブルー。白の光を構成する三色。分かりやすく画面の縦線と、同じ色の薔薇を選んだ。小さな音で、ピロン、と認証音がした。固く閉ざされていた扉が、いとも簡単に、二人を迎え入れた。
「あい、……た」
「うん。すごいじゃん」
夜宵が、一足先に扉の先に進んで、早く行こう、と振り返った。「ほぼ何もしてない癖に何先導してんのさ」と、のあも足を踏み出す。夜宵は、変わらない笑顔で、しかしほんの少しだけ楽しそうに、その言葉に笑って返した。
相変わらず、嫌な光景だ。彼らもこんな所から出たいだろう。生きて、外に出たかっただろう。それは例え神に祈ったところで変わらない、凄惨な景色だった。
「……あんたはさ、ここから生きて出られると思う?」
短い廊下だった。のあのそんな質問に、夜宵は「勿論」と自信ありげに返してみせた。
「懸念点を挙げるとするなら……神咲 東(かんざき あずま)。彼が戻ってきたら、私たち二人、揃って生きて出られる確率は1%にも満たないんじゃないかな」
夜宵の言葉に、のあは「は」と一言発する事しか出来なかった。そんな様子を気にとめることもなく、廊下を突き進み、扉の先へ進んでいく夜宵。「立ち止まってるなら置いていくよ」の声に、ようやく意識を戻したのあが、小走りで夜宵を追いかけた。
白色の、相変わらず重たい扉を開ける。その先の空間に、眩しさすら感じた。先程のコンクリート造りの灰色の空間とも、はたまた洞窟のような空間とも違う、見渡す限りが異質な程に純白のフロアだった。壁や床、扉に家具。唯一白でなかったのは、先程も見た謎の機械。生温い風邪を発し、謎の数値が表示されている、所々に配置されたこの機械は、夜宵が言うには【魔力濃度調整器】と呼ばれている代物らしかった。
緑色の数値──現在は0.02と表示されている──は、現在大気中に流れる魔力の量。魔力は、大気中に増えすぎると人体には害があるものだった。悪魔が常に微量放出している魔力は、普段生活する分には問題ない程度だが、この場所は密室に悪魔を、それも精神的に穏やかとは言い難い状態で集めている。その為、大気中の魔力濃度が非常に高くなりやすいのを、こういう形で対策しているのだろう。魔法の使用を最大限制限し、魔力をジワジワと奪い、その回復さえも防ぐ事で力のある悪魔の反逆を事前に防ぐという目的もあるのだろうと、夜宵は語った。
機械から排出される生温い風は、人体には無害な、教会が独自に研究、開発した人工元素フォルタシウムを主成分とした特殊な薬品で「フォルタシア」と呼ばれた。魔力を打ち消す効能を持ち、悪魔を弱体化させる霧のようなものだった。
幻想のphantasia(パンタシア)と、幸運のfortuna(フォルトゥーナ)から名付けられた新たな元素「fortasium(フォルタシウム)」。この元素は、研究職に就く朽木類(くちぎ るい)、枢機卿の真宮紫月(まみや しづき)、そして当時大司教だった神咲東。教会内でも屈指の知能と能力の持ち主である三人が共同で、中心となって開発したものだ。この元素は、悪魔のいない楽園への第一歩だと信じられた。人類の抱き求めた幻想が、現実になる程の幸運をもたらすと信じられた。
詳しいね、のあがそう言えば、夜宵はほんの少しの間、その説明を止めた。そして、軽く振り返って、肩越しにのあを見た。
「こんな事、詳しくない方がいいんだよ」
そう微笑んだ夜宵は、今までの笑顔よりもずっと優しくて、寂しそうな笑顔に見えた。
「兎も角だ、これが機能している限り、私達は常に力が制限されているのと同義ってことだよ。魔法なんか使えない、打ち消されるだけだからね。つまり今の私達はか弱い人間と同程度」
夜宵はその後、振り向くことも、立ち止まることもせずにそう語る。が、不意に立ち止まったのあに気が付くと、溜息混じりに踵を返した。
「ちょっと。いまはそんな機械で遊んでる場合じゃないでしょ? 神咲に私達のことが伝わる前に出たいんだ、早く……」
「声がする」
そう言うと、のあは「は?」と珍しく意味がわからないという表情をする夜宵を置いて、来た道を戻った。
先程出てきた扉の、少し手前。小さな扉だった。カード認証式の扉を、先程のカードキーで開ける。誰かの啜り泣くような声がした。暗い部屋に牢がいくつか用意されていて、扉がしまっているのはそのうちのひとつ、一番扉から遠い牢だけだった。
「……だれか、いるの?」
それは、幼い子供の声だった。
「いるならだしてよ、お願い、怖いよ、かえりたい……」
声の方向へ、のあが進む。夜宵は、扉の所で腕を組んで退屈そうにしていた。
牢に捕らわれていたのは、まだ十歳にもならないような幼い少年だった。茶色く柔らかそうな髪質で、白が基調の和服を着ている。とはいえ、形こそ和服に見えるが、裾にあしらわれたフリルや装飾は、随分豪華に崩された雰囲気だった。小さなその子は硬い石の床に座り、袖で涙を拭うように見えた。
「……大丈夫?」
のあがそう問いかける。顔を覆っていた袖から覗く、天使のように純白の瞳が、のあの目を見た。
「あれ。関係者じゃないの? なぁんだ」
幼い子供の悲痛な泣き声は一瞬のうちに消え去って、その少年は、まるで大人のような強気な笑顔で「初めまして」と笑って見せた。
「ねぇ、君も閉じ込められたの? 教会の関係者じゃないよね、だって後ろに悪魔を連れてる」
「……あんたは、……何者?」
「人に名前を聞く時の礼儀、年上なのに知らないの? まあいいや。僕は瀬名。世継 瀬名(よつぎ せな)。気軽に瀬名様、って呼んでいいよ、お姉ちゃん達は?」
その問いに、のあが返そうと口を開くと、後ろから夜宵が「あのさ」と口を挟んだ。裸足の彼女が、軽い足取りで瀬名の前に立ち、腰を曲げて、笑って目を合わせた。逆光でさらに暗くなった夜宵の、真っ赤な瞳がよく目立つ。
「世継、瀬名君? ……その名前と言い、君、ソッチ側じゃないのかな」
と、夜宵のしなやかな指が瀬名の瞳を指した。対する瀬名はと言えば、どうしてか満足気ににっこり笑顔を作り、その手を取って指を絡めると「あは」と笑った。
「僕のこと、信用できない?」
「別に、私は信頼関係なんかはどうだっていい。ただお互いに良い関係を、築ける相手と関わりたいだけだよ。教会の人間相手じゃ、難しいと思わないかな?」
夜宵の言葉に、瀬名は楽しそうに、場には不相応に、年相応に──とはいえ、瀬名の正確な実年齢まではのあの知り得たものではないが──無邪気に「あははっ」と笑った。
「うん、お姉ちゃんの警戒心は正しいよ。だって実際に僕は今、君の力を利用してる」
その言葉に、夜宵が身構えて瀬名の手を振り払う。笑顔のまま瞳を開けた瀬名の純白の瞳には、悪魔のように真っ赤な瞳孔が浮かんでいた。
「ああ、良かった。魔力が足りなくてさ、これでやっと立ち上がれる。安心していいよ、そんなに大量には奪ってないから」
「……君は、天使? それとも、悪魔なのかな」
「さあ。僕も分かんない、けど少なくとも君達の敵じゃない」
立ち上がって尚、のあより小さな夜宵よりも、更に頭一つ分程度小さい瀬名。牢の中を、数歩歩いた。そんな彼の小さな腕が格子の隙間からのあに伸びて、小さな掌が、服の裾を摘んだ。
「ねえ、お姉ちゃん。ここの鍵探してきてよ。あと僕の荷物も」
それは、幼い子供のお願いというには随分と、断らせない、と圧すら感じさせる言葉だった。ほんの数秒の沈黙の後、瀬名が「ところで」と口を開く。
「人には自己紹介させておいて、まさか君達は名乗らないつもり? 随分立派なご身分なんだね」
その言葉に、のあは「あっ」と声を漏らし、夜宵はと言えば、若干渋々ともいえる様子で小さく自身の名を発した。
「のあちゃんに、夜宵ちゃん。どうぞよろしくね、良い関係、築けたら嬉しいな?」
そう言った瀬名は、小さく眠たそうに欠伸をすると牢の奥、簡素なベッドに座る。それは彼では足も地面につかない、大人用のベッドだった。
「……何見てるの? 早くしてよ、ここ退屈なんだよね」
ちら、とのあ達の方を見た瀬名が、表情は別段不機嫌そうな訳ではないが、そうともとられるような言い回しでそう言い放った。
「わかった、わかった。全く、仕方のない子だなぁ……荷物の特徴は?」
「赤色の羽織と、赤い宝玉のはめ込まれた杖」
「これはまた随分独特だね、分かりやすそうで助かるけど。まぁ君は少し眠って待っているといいよ」
夜宵の言葉に、瀬名は笑って「ありがとう」と返した。あの性格でお礼が言えるのか、とでも露骨に言いたげな表情をしたのあが瀬名を見つめると、それに気が付いたのか今度は多少不服そうな顔をした瀬名が「早く行きなよ」と急かした。
脱力してベッドに横になる瀬名に背を向けようとした、その時だった。
「驚いた」
「!」
声がした。油断した、と思った。
──頭痛がする。酷い頭痛と、悪寒がする。嫌な予感がして、心臓がドクンドクンと脈を打つ。聞き覚えのある声だ。この、声。この声は。
「出れたんだ、良かったぁ! 心配してたんだよー」
そんなのあの予感とは違う、間延びした、明るい声が暗い室内に響いた。
「……秀……?」
「なーんだ、せっかく今さっきあそこの扉解除できたのに……まぁ出れたんならなんでもいっか。無事でよかった」
その言葉に、何か返そうとしたとしたのあの口は、空気だけを発した。残念、先程そう言った時の秀の表情は、暗くて、それに座って下を向いていたから、あまり印象には残っていなかった。そのせいか、まとわりつく血液の生温かさだけが、妙にのあの掌にこびり付いていた。
「えっと……君は、はじめましてだよね? 広瀬秀っていいます」
「初めてじゃないよ。ゴミ捨て場とやらに、藍葉と二人で来てたのを知ってるからね」
その言葉に空気がピリついたのを、少し鈍感なのあでさえ感じた。「そうなんだぁ~?」と穏やかに返す秀の目の奥に、のあの知らない表情が見えた気がした。
「いいよ。穏やかぶらなくていい、広瀬。私は見てたからね。君でしょ? シャッターを閉めて、彼女をあそこに閉じ込めたのは」
ふわりと、秀が微笑んだ。
笑顔のままで、ただ穏やかに、秀は言った。
「そうだよ」
──と。
「は? そ、う……? そうって、何? あんた私の事騙して、ずっとじゃあ、殺そうとしてたの!?」
のあのその言葉に、秀は今度は慌てたように「違う!」と返した。先程の大人びた知らない表情の秀ではなくて、泣きそうな、子供っぽい、よく知る秀の顔だった。
「違う、ちがうよ、そんな訳ないでしょ……」
そう俯いた秀は、少し考えたように沈黙すると、やがてぽつりと言葉を零して、紡いだ。
──柊真尋が、のあを狙っている。
秀が言うには、事故に見せ掛けて地下に閉じ込め、その間に魔力暴走させた悪魔を送り込んで殺す。そして、薬品を打ち込んで、天使として復活させる。そういう手筈だった。藍葉のあを閉じ込めて、殺す。それが、真尋から秀に下された命令だった。そう語った。
「でも、……悪魔、僕がこっちの階に連れ込んで、さっきちゃんと処理したんだよ。だって、……僕達友達でしょ……?」
秀は少し遠慮がちに、小さな声で呟くように言った。嘘をつき閉じ込めた事への罪悪感か、それとも当初は強がっていただけなのか、どちらにせよ、のあと秀の距離は何故か出会ってすぐよりも離れた。或いは、秀によって縮められたそれを、秀によってまた、離されたようだった。
「悪魔を道具とみなすような君の発言も、行動も気に食わないけど……まぁいいよ。根付いた意識は、そう簡単には消えないだろうからね」
夜宵が、秀に一歩近付いて、真下から顔を見上げた。一般的に、恐らく高身長に入るであろう秀と、低身長に入るであろう夜宵。あんなに見上げて首痛めないのかな、なんて、少し遠くでのあが一人余計な心配をしているうちに、二人の間ではそれなりに物騒な会話が繰り広げられていた。
「一度だけ。君に与えるチャンスは一度きりだよ、次は無い。次に私が違和感を感じたら、その時は私が君を殺そう」
「うん、十分。だって僕、のあちゃんが無事ならそれで良いから」
「へえ、友達だから? はたまた恋かな? 随分な執着だね」
夜宵の言葉に、「内緒」と秀が返した。その少し後、牢の中から不満気な溜息が聞こえた。
「やっっと話し終わったの? うるッさいんだけど、眠れやしない」
声の方を見れば、先程眠たそうに布団に入った瀬名が起き上がって、苛立ったように腕を組んでいた。「わすれてた……」と零れたのあの言葉に怒りがピークに達したのか、ようやくの眠りを邪魔された瀬名は小さく舌打ちをした。ここから出る鍵を探して欲しい、とお願いしている立場的に考えれば随分と偉そうなものではあるが、しかし今まで自力で動けず、冷たく硬い石の床で浅い眠りを繰り返すしか無かった彼の、数日、或いは数週間ぶりの柔らかく暖かな──勿論、お世辞にも質が良い、とは言えないのであろうが──布団での休息、と思えば、その怒りもまぁ最もと言えば最もであろう。そしてその目に睨まれれば、その場にいた誰しもは、そっと目を逸らすことしか出来なかった。
「早く出てって」
「は、はぁい……」
「ふん」と不機嫌な瀬名が、布団にぽす、と音を立てて横になる。彼の軽さ故か、勢いよく寝転がった割には小さな音しかしなかった。
最後に部屋を出たのあが、なんとなく、瀬名の方を振り返った。小学校低学年くらいの子供が、小さな手で薄い布団を抱いて、狭くて暗い石の牢獄の中で眠っている。
「……これが教会の中っていうなら、何の為の信仰だよ」
そう呟いたのあを、秀がちらりと見やって、そっと手を引いた。
「あの子、瀬名くん?」
部屋から出てしばらく歩くと、秀がぽつりとそう呟いた。「知り合い?」とのあが聞くと、秀はただ首を振って否定した。
「でも聞いたことあるよ。世継瀬名、……天使になれるはずだった子って」
秀の言葉に、誰か、何かを返す訳でもなくただ視線を向けた。それはまるで、その先の出方を伺っているかのようだった。
秀が続けるには、このフロアは信徒の間では「煉獄」と呼ばれているらしい。そして、悪魔への救済を行うこのフロアの中でも特に、あの牢は特殊なものらしかった。魔力暴走を起こした悪魔も捕えられるように、この辺りよりももっと、魔力を表に出せばすぐに掻き消えるように作ってある。牢に強く触れれば、電流が流れるようになっている、と。故に、あそこに捕らえられている、それ自体が脅威であるという証なのだと言った。
「分かってるよ、あの子はまだ小さくて、きっと十年も生きてないだろうね。でも、それならあんなに幼い子を、なんであそこに捕らえたの? 危ないからじゃないの? 天使になれるはずで、それなのに脅威って恐れられるようになったのは、なんで?」
「……何が言いたい訳? 秀」
歩みを進めていた秀の足が、ぴた、と止まった。彼よりもほんの少し先に進んだのあ達が、振り返って俯いたままの秀を見た。
「…………。怖いよ。怖かったんだよ、のあちゃんも見たでしょ? 魔力暴走を起こした悪魔は、脳も、皮膚も魔力が溶かして、その身体のある限り、ただ魔力の持つ攻撃性だけに従う化け物になる。教会が言う脅威は、……それだったよ」
或いは、それになりそうな予兆のある者だったと。少しの間を開けて、夜宵が一歩、秀に近付いた。「うん、そうだね」と。
「分かるよ。その点については同意しよう、申し訳ないけど、よく分かる」
その言葉に、のあが言い返そうと口を開くが、夜宵の細い人差し指がそれを制する。
「素性も分からない彼に十分に信頼を寄せてしまっているなら、藍葉、君は少し甘すぎかな」
夜宵の大きな目が、ほんの少しだけ細められた。真っ赤な瞳が、真っ直ぐにのあの目を見る。のあはほんの少し気圧されかけたが、すぐに夜宵の手を取って、小さな彼女を見下げた。
「素性も分からない、そういうのならあんた達だって同じだよ」
「そうだね。だから私は、私を信用しろとは言ってないでしょ、私も君を信用はしてない。これに関しては、お互い様ということだね」
のあの手を、夜宵は軽く振って払った。そして、「それでも」と続けた彼女の冷たい目は、秀を制した。
「私は、あんな幼い子を見捨てて保身に走るほど腐ってはいないよ。その点においては、信用してくれていい」
ふわりと、夜宵が二人を背にしてまた歩みを進める。秀もなにか言おうとしたが、しかしその言葉は飲み込んだようだった。
「人を信じられるのは、藍葉、君の長所だ、素晴らしいことだよ。だから、誰かを疑うのは私に任せるといい」
そう言った夜宵が振り向いて、にっこりと笑ってのあに手を差し出した。
「それに少なくとも、助けて貰った恩がある。だから、今、この場所で、私は君の味方であると誓うよ」
差し出された夜宵の手を、のあが握る。温かいその手は、人間と、何も変わらないように思えた。